華厳の道 第六章 『呪・第一義』
第六章 呪・第一義 『世界の境界』
『呪』とは「この世ならざるところ」をコントロールする手法である。
では「この世ならざるところ」とは何処なのか?
現実世界ではない何処か・・・・
霊界、幽界、神界、潜像界・・・
はたしてそれらは「この世ならざるところ」なのだろうか?
それらの世界は「この世界」と隔絶されたところなのか?
否(いな)
この世とあの世は「続き」であり、明確な「境界」などない。
あなたの「目」は『どこまで』遠くを認識できる?
1キロ先のものまで明確に見えるか?
では10キロ先ならどうだ?
その目で認識し得る距離と認識できなくなる距離というものがある。
その「境界線」は「物理的」な境界線ではなく、「視認範囲」の境界線ということである。
つまり、この世とあの世の境界とはそのようなものである。
自分が視認できる境界内を「この世」と呼び、視認できない境界の先を「あの世」と呼んでいるに過ぎない。
だから、視認範囲が10キロメートルの距離として、では10キロメートル以上の世界は存在しないのか?
そんなはずはないのは明白なこと。
だが人は「あの世は無い」とする。
「見えない境界の先」は『無い』とするのである。
つまりそれは「妄想」に過ぎない。
10キロメートルの境界より先、15キロメートルまで視認できる人がいて、11キロ、12キロメートルあたりに「何かある」と言うとする。
すると人は途端に「嘘つき」と言う。
自分には見えないから、自分より視認力の優れた者を「認めようとしない」だけの話である。
10キロメートルより先の世界など『無い』として・・・・
あの世を「視認」するためには「視力」を鍛えることである。
そして、視力は「視覚」という「感覚」を明敏にするということ。
空間の「微細な違い」というものを「認知」する能力であり、それは「目」だけの感覚を研ぎ澄ませても駄目である。
人の脳は「目」から受け取る「視覚情報」に自ら『制限』をかけている。
制限をかけることで情報量を減らし、脳の機能を別のことに振り分けるため・・・とも言える。
だが実際は脳の機能が「別の事」に多く振り分けられているために、情報量を自ら制限している・・・と言った方がいいだろう。
年月を重ねるにつれ、人は日常の「必要性ある情報」というものに主体を置くようになる。
そして、その情報の収集が妨げられないように、自然と「制限」をかけるようになるということだ。
子供のころは見えていた様々なものが、大人になるにつれだんだんと「見えなくなる」のは、「除外」する情報が増えているということであり、それが「制限」をかけているという状況になる。
子供のころには20キロ先まで見えていたものが、大人になるにつれ15キロ、10キロと「視認範囲」が狭まってゆくようなものなのである。
そんな自分で「無意識」にかけている「制限」が何なのか?
それを認識して、意図的に「制限」を解除する。
そうして視認範囲を広げてゆくと、15キロ先、20キロ先、30キロ、50キロとどんどん視認範囲が広がり見える距離は伸びてゆく。
それが、在るようで本当は「無い」この世とあの世の「境界」の先へと進む方法である。
人の「思い」や「感情」というった「心」とは、この世のものか?
それともあの世のものか?
視認できる「思い」もあれば、視認できない「思い」もある。
だがそれも「視野を伸ばす」努力をすれば「視認」は出来ることとなる。
視認と言うよりも「認知」と言った方がいいだろう。
他者の「本心が見えない」と言う時、それは「認知範囲」がそこまで到達出来ていないということであり、それは裏を返せば「自分の本心」にすら認知範囲は到達していないのである。
まぁ、そもそも「本心」というものの定義自体あいまいなものなのであるが。
この世とあの世という言葉の分け隔てのように、実際は「分け隔て」など無いのである。
その分類は単に「認知範囲の内外」という「主観的」なものでしかなく、けっして客観性のある事実ではない。
あくまで主観の認知範囲というだけの話である。
幽界も霊界も神界も「認知」できる「波長」の距離・・・というものである。
そして多くの人が「この世」と言っている世界も「波長」である。
例えば、手をぎゅっと握り、その握りこぶしに力を込めているのが「この世」であり、そこから力をゆるめていくと幽界になり、さらに緩めると霊界になり、まったく脱力した状態が神界・・・
といったようなもの。
これは波長の「固さ」の表現である。
そうすると『神の愛』という波長がどのようなものかわかりやすくなる。
脱力した状態・・・
在るものを在るがまま「受け入れる」状態・・・
力むほど「拒絶」となり、波長か固く重くなる。
「拒絶」とは「分け隔て」となり、だから「この世」という三次元物質世界は「分け隔て」の強い世界なのである。
それが幽界、霊界と進むほどに「分け隔て」という「隔絶」が『曖昧』となってくる。
神の世界に至っては「溶け入る」ように「重なる」ように『一体感』となるのである。
「色即是空」や「一即多」という言葉のように・・・・
この世とあの世を隔たっているのは自分の「主観」でしかない。
認知を「制限」している内と外
その壁とな何なのか?
それが「呪」というものである。
明確な隔たりなど「無い」のに「在る」ように誘導するもの・・・
それが『呪』の基本である。
「この世」と「あの世」というまるで世界が隔たってでもいるような『言葉にょる分け隔て』が既に『呪』なのである。
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