【救世物語】
たとえそれがどんな世界であろうとも、どんな状況であろうとも、今という瞬間を零に回帰し、真っ白なキャンバスに筆を走らせる如く、自らに見える、自らが関わる、自らの世界を描き創造出来るものが救世の道を歩むものである。
業火の中にあろうとも、そこから未来を描き出し創造する。
歪んだ現実であっても、歪みそのものがキャンバスの「最初の下地」でしかなく、たとえ壁があろうとも、その壁に未来を描き創造しゆくものだけが、新世界を垣間見ることが出来る。
未来を投げ出したものに未来はなく、創造することをあきらめたものに未来はなく、目の前に広がる「今」というキャンバスに自らの思いを描き続けるものが世界を救う。
傍観し、創造されるのを待つ者は、ただの絵の一部となり行く。
それは誰かの創造した未来のキャンバスを彩る風景でしかない。
風景の一部として受け入れられることを「生きること」とした傍観者は、ただただ風景の一部として傍観されるだけのものとなる。
誰のせいでもなく、自身で選んだ結果である。
いくら声を上げても、いくら叫んでも、風景から聞こえる環境音でしかない。
自分が自分の世界の「主人」であることを投げ出したものに、世界もまた同じ思いを投げ返す。
たった自分ひとりの世界も創造し得ず、世界と関りを避ければ、世界からも避けられ、創造の道から外れ行く。
世界と言う物語は、創造したものにだけ微笑む。
たとえ真っ白のキャンバスでなくとも、そこからいくらでも絵は描ける。
世界という広大なキャンバスは、描き創造する場所などいくらでもある。
汚れていようとも、破れていようとも、描く意思さえあればいくらでも描ける。
誰一人として真っ白なキャンバスから始められる者などいない。
長い長い年月の間、書き続けられてきた世界というキャンバスに、新たな世界を描き込んでいくだけである。
自らの世界を描こうと思った時が世界の始まり。
自分が主である世界を、重ねて描き始めた時、人は「創造主」となる。
壊れ行く世界のキャンバスを、新たな創造で彩り描くものを「救世主」という。
自分一人の世界が、やがて誰かの世界と繋がり、繋がりが広がって大きな世界が描かれる。
自ら描かねば繋がれず、繋がれなければ世界は広がらない。
誰かの世界の風景となるか、自らの世界を創造するか・・・
自分の世界を切り開くとは、最初の一筆を走らせること。
自分が自分であるために、自分が世界と繋がり、朽ち行く過去に彩を重ねていくことが、世界を救う道である。
生まれ、生きている全てのものに与えられた権利であり使命であり自由であるもの。
世界は・・・・
彩られるのを待っている。
朽ち行く過去に生命と彩を与えるものを待っている。
誰かのためではない。
自分が主(あるじ)である世界が創造されるのを待っている。
朽ち行く世界に描け。
自分を描き彩生命を与えよ。
初めはか細い筆なれど、描き続けていればやがて太くなる。
けっして枯れることの無い、神の泉が湧き続ける。
自分が自分であるために、自分と言う存在に偏れ。
偏って偏って、磨いて磨いて・・・・
やがて鋭く尖った自分が、朽ち行く世界のキャンバスに一線を刻む。
その一線に呼応して、神が応えて次の線を指し示す。
一瞬一瞬一線を描き、それがやがて絵となり新たな世界となる。
大きな世界のキャンバスに、色とりどりに描かれた個々の世界が、大きな一つの世界となりゆく。
個々の世界が繋がり調和することで、絵は完成され世界は形作られゆく。
誰か・・・が世界を描いているのではない。
誰か・・・は自分の世界を描いているだけである。
ただそこに自分を主とすることを捨てた者が「風景」として便乗しているだけである。
それらはすべて「個々の意志」
誰か・・・が世界を壊しているのではなく、誰か一人が世界を壊すことなど出来ない。
ただ、自分が自分の「主」であることを捨てたものたちが、壊し行く世界に風景として乗っているだけである。
自分が自分の「主」であることを捨てているのではないか?
自分の世界の責任を投げ出しているのではないか?
世界に自分自身を参加させなければ、世界は存在を知らぬままである。
誰かに必要とされるのではない。
世界にとって必要だから存在している。
世界が存在を認めているのに、どうして自分が自分を認めないのか?
自分を認められるのは自分しかいないのに・・・・
自分が自分を認めなければ、世界はそなたを認めることが出来ない。
自分を誰かに認めさせるのは、誰かの世界の風景となること。
自分自身が認めぬものを、他者が認められるはずもなく、世界もまた認められない。
草木や山河、鳥や獣、虫たちと同じものになるということ。
それが望みならいくらでも、草木鳥獣からお出直しさせてくれよう。
だが人で在りたいならば、人としての自分を認めよ。
自分は何者であるか?
それは自分の奥底にしか答えは無い。
自分の奥底から湧き出る、あふれ出る、迸(ほとばし)る光が自分である。
光は光透(こと)であり、言となり事となって命する。
その光が自分であり、魂というものであり、偏りであり尖る角となる。
偏り尖らせる自分を鈍らせるものを掃除せよ。
自分である光の偏りを磨いて尖らせよ。
鋭く尖った角を筆として、キャンバスに一線を描く時、世界に自分が現れて、新たな世界を創造しゆく。
自分を描くが救世の道
朽ち行く世界を救う道
自分の世界の自分の物語を世界に刻むが「救世の道」である。
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