『知っている』ことにしている仮想現実世界
世の中・・・
『知っている』ことにして『知っている』つもりになって、それが『常識』という【土台】として機能しているということを、この「コロナ禍」の4年でつくづく思い知った。
【医療】というものがいかに『まやかし』であるかを見せ続けられ、一握り・・・いや、一つまみの人を除けば、当事者すらその『まやかし』に魅せられており・・・・
【科学】というのも全く同様で、科学を進歩させているのは「一つまみ」の人であり、それ以外は『まやかし』の土台に胡坐をかいているだけの凡夫である。
そもそも、それらの土台となるはずの【学問】自体がまやかしだらけであり、さらにはその学問の根底にある「歴史」や「伝承」さえにも【実の無い知恵】が散見される。
【医療】に絶望して自ら【癒し】の道に入ったわけであるが、そこで【学ぶ】ということの認識があまりにも世間の常識と「食い違っている」ことを痛感した。
私は元々【探偵】である。
【事実】を何より重んじる。
では【事実】とは何なのか?
『知識』というものの領域に於いての【事実】とは【実証】であり、科学も医学も【実証】の土台がなければならない。
だがいつしかどちらも【誰かの論拠】という【仮定】に依存し、それを『科学的知見』と言い、【実証】に於いても「いくつも辿らねばならない道」をいくつも【割愛】して、推論にとって「都合のいい実証」だけを挙げるようになり、推論を否定するような【実証】が現れるもの(道)を「あえて証明しない(通らない)」ことで「無い」ことにする。
そうして積み上げられた【科学】や【医学】、さらには【学問】と呼ばれるもの全般の『土台』は、泡のようないつはじけるとも知れない【薄氷】の如き足場である。
だから、コロナ後は更に治癒療養について自分で学ばなければならないと感じ、以前から持っていた知識であるアロマやハーブに関しての知識も見直し、さらに薬膳や漢方なども学び始めたが、やはりここでも【仮定】という薄氷の足場を渡っているのだと痛感させられた。
実際、【事実】と照らしてみれば『違和感』があるものが多々ある。
だがそれらの『違和感』を無視して『そうである』として『思い込む』ことによって「常識」という【土台】にしていることがあまりにも多いことを見つけてしまうわけである。
だが実は【学問】、いや【教育】というものの根底に「違和感を無視して思い込む」ことで現代の【教育】が成り立っていることもわかるわけである。
恐らく【知識】そのものが本当に正しければそれでいいだろう。
何の違和感もなく誰もが『腑に落ちる』ものであるならそれでいいだろう。
だが実際は「教えている」方も「腑に落ちていない」ものが多々あり、それ(知識)を伝える伝承の中に於いても【実証】が無いものが多々あるわけで・・・・
それが、いつ、どこで、どのように「歪んだ」のかはわからないが、明確に「歪み」の前後の境界があるのである。
そんな「歪み」の原因は決まって【実証】がされないことによって起こることがわかる。
【実証】とは非常に「高度」なものである。
「高度」な「技術」や「感覚」というものが必要とされるものである。
だから万人にとっては「霧の中」のように見えにくいものであるが、その「霧」を晴らして『垣間見た』という【実証】が存在し『伝承』される【知識】となる。
そして、それを「受け継ぐ」者は【実証】し続けなければならず、だがその【実証】が「途絶えた」ことによって「歪み」が生じはじめ、一度歪んだものは「歪み」そのものを「受け入れてしまった」のであるから、その先どんどん歪んでゆく。
【神】の【知恵】を受け継ぐ『禰宜』や『巫女』が【神】そのものを見失い、【仏】の【道】を受け継ぐ『僧』や『修験者』が【仏】を見失い、ゆえに「神話」や「経典」の数々も歪んで理解され、さらに「歪んだ理解」を土台にして新しい「歪み」が生まれ続けたわけである。
だがそれを【常識】という土台にして、【道】の基盤にして・・・・
だから【実証】できる唯一のものである【型】に依存した。
【神】を【実証】して、【仏】を【実証】したとき、それは「霧」が明らかに晴れた時である。
つまりは【事実】を『垣間見た』時、【型】というものが如何に「歪んで」いるかということが嫌でもわかる。
【学び】に於いてもそれと同じで、【事実】というものを見つけてしまった時、同じように「教え」の「歪み」が明らかになる。
以前、養老孟司先生がおっしゃっていたように、中学生になって子供は算数から数学へと移行する際に、数学というものに「引っかかる」子供と「引っかからない」子供に分かれる・・・と言っていた。
「引っかかる」というのは「納得できない」「腑に落ちない」から『先へ進めない』ということであり、「引っかからない」というのは「そういうものだ」と『受け入れる』から『先へ進める』ということである。
そして、ここで「芸術系」の人と「理系」の人に分かれるということだ。
ここでひとつ、誰もが『勘違い』していることを挙げる。
「芸術系」と呼ばれる人たちは【実証】を重んじる人なのであり、「理系」と呼ばれる人たちは【実証】されない【仮定】を受け入れる人なのである。
ほとんどの人は「理系」が「現実的」であり「芸術系」は「夢想的」と『思い込んで』いるわけであるが、実際は全く逆である。
芸術家は【実証】や【実体】【実像】【実映】を求めているからこそ芸術するわけである。
夢想家なら【表現】などという【実証行為】など行わない。
だが【科学】も【医学】も「仮定」のまま進んで行ける。
まるで【夢想】の中のように・・・・・
右脳が優れた人は、嫌でも現実と仮定との「違い」を感じ取る。
左脳に重点が寄りすぎて右脳がかすんでしまった人は、現実と仮定との「差」を感じ取れない。
だから「現実離れ」した道を「芸術家」は進めず、「科学者」は進めるわけである。
人の「認識」の天地は全く逆さまなのである。
陰陽五行の図を見てどうしても【違和感】がぬぐえず、それは根本的な「理(ことわり)」からズレていることがわかり、その根本的な理(ことわり)通りにしてみたら【腑に落ちた】わけであるが、それがいわゆる「芸術の実証」というものである。
自分の掌を見つめれば「理(ことわり)」はそこにあるわけで、だから「陰陽五行」も同じ「理」の上に立っているから「五行」は「一つ」と「四つ」であることがわかってようやく【腑に落ちる】わけである。
つまりは「親指」と「他の四つの指」という【違い】が存在しているわけで、その一つと四つは明らかに「区別」されるだけの【違い】があるのである。
だから「五行」の「木・火・土・金・水」も「伝承」のままでは【違和感】が付きまとい、「理(ことわり)」と同じように「区別」することでようやく「現実的」な配置で治まるわけである。
また、例えば「漢方」の概念で「五臓六腑」というものがあり、これもまた【違和感】の元である。
その【違和感】の中心にあるのが「六腑」の一つである「三焦(さんしょう)」というもの。
「三焦」とは一体なんだ?
その答えを求めたが「こう言われている」「こうだとされている」などという【仮定】または【推定】の情報しか出てこない。
【実感】として「三焦とはこんな感じである」という「教え」が見当たらない・・・・
つまりは【実証】として確認している人がほとんどおらず、もし居たとしてもその【実証】自体が「教え」と『ズレている』ということだろう。
だから「こうである」という【実証】を「下手に語れない」わけである。
幸か不幸か今回のコロナ禍、いやワクチン禍、シェディング禍と言った方がいいかもしれないが、それらによって「三焦」というものがどういうものかが見えた。
そして「三焦経」という経絡が如何なるものかということを知る道筋が見つかった。
そのことによって「三焦」に関する伝承や「こうである」というものが「三焦」というものの【一部分】を指しているということが理解できた。
一部分が【事実】であるなら、そこから先へ進める。
ただの【仮定】なら進めないが、【事実】という『確たる足場』があるからこそ『未踏の道』へ足を踏み入れることが出来るのである。
そして、それによって「六腑」は「五腑」と「一腑(三焦)」に分けてもいいだろうし、「腑」というものとは「別物」として「五臓五腑」と「三焦」に分けてもいいだろう。
それは、【実証】に照らし合わされればはっきりすることである。
だが、「どちらかだろう」というときに分けてしまえばそれは【歪み】となる。
【実証】することは非常に大切である。
そして、【実証】したとき、【事実】を垣間見たとき、【実証】した人の語った言葉は光を放って見えるものである。
言葉だけではなく、絵も造形も音楽も【実証】されたものは輝いている。
そして【実証】した科学者は「芸術家」の範疇なのである。
さらに、【神】や【仏】を【実証】するのもまた【芸術】である。
そして【芸術】とは【美術】のみのことではない。
【実証】し【具現化】するのが【芸術】なのである。
美容師が髪を切るのも、整備士が機械を整備するのも、農家が作物を作るのもまた【芸術】であり【実証】である。
【実証】の中で生きる者と【仮想】の中で生きる者・・・・
二線に分かれた道の乖離はどんどん広がってゆく。
けっして腑に落ちない「仮定」という「薄氷」の上に居て違和感のない者と、「事実」という盤石の足場の上にいる者と・・・・
盤石と思っていた仮想世界の薄氷がひび割れ始めたこの数年間・・・
【認識】の天地がひっくり返る時である。
ひふみ神示 黄金の巻 第八十三帖
ひかる誠の行をさしたら、皆 逃げて了ふから、ここまで甘くして引張って来たなれど、もう甘く出来んから、これからはキチリキチリと神の規則通りに行ふから、御手柄結構に、褌しめて下されよ。この世は神の国の移しであるのに、幽界から移りて来たものの自由にせられて、今の体裁、この世は幽界同様になってゐるぞ。地は九二(クニ)のやり方せねば治まらん。早う気付いた人民から、救ひの舟を出して下されよ。これと信じたらまかせ切れよ。損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによって めぐり取っていただくのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済しぞ。世界のめぐり大きいぞ。真理は霊、芸術は体であるぞ。正し芸術から神の理に入るのもよいぞ。説くのもよいぞ。芸術の行き詰りは真理がないからぞ。芸術は調和。七つの花が八つに咲くぞ。
月光の巻 第十七帖
そなたの仕事、思いつき結構であるが、神の御意志を頂かねば成就せん。神と申しても、そなたが勝手にきめた神や宗教で固めた制限された神ではないぞ。判っただけでは駄目ぞ。行じねばならん。生活しなければならん。芸術しなければならん。
五十黙示録 星座之巻 第二十一帖
言葉は生れ出るものぢゃ。先づ言葉され、歌となり、文章となり、又絵画となり、彫刻となり、建築となり、又音楽となり、舞踊となり、あらゆる芸術の元となるのであるぞ。神に通ずればこそ、愛であり、真であり、善であり、美であり、喜びであるぞ、喜びなきものは芸術でないぞ。今の芸術は死の芸術、魔の芸術。
0コメント