終わっているのに終われない人々~兵庫県に群がるゾンビたち
阿部派、維新、N国、在特会等々・・・・
兵庫に群がるゾンビのような者たち。
終わっているのに終われない人々が、握って離せぬ「過去」を礎にして、何一つ「新しい」ものを生み出せないから「壊す」事しかできない。
やることなすことすべてが歪んでいるために、やることなすことが「壊す」方へと曲がってゆく。
同じく、終われない人々がそれに連なり、『類は友を呼ぶ』ように、自ら立てない「蔦草」たちが、政治に群がり「税」という水を吸いつくし行く。
すでに亡くなった「安倍晋三」という人を「手放せず」、終わらないから何も始まらない。
真ん中の「軸」を失った『独楽(こま)』が、その都度「軸」を求めて彷徨い、たまたま兵庫知事選挙で、「斎藤元彦」という人物を「軸」にした。
ほんの一時の「借り物」の『軸』である。
そして、安倍晋三時代に密接に繋がった「維新」の面々もそれに付随して、「独楽」を回したのが兵庫知事選挙である。
さらに「類は友」を呼び、NHKに絡みつくことが出来なくなって尚、「NHKから国民を守る」という看板を下ろせない者たちが、NHKに代わって「地方政治」に「巻きつく」ために、そこに加わっている。
NHKに「噛みついて」いた人々が、NHKから離れたらただの「噛みつく集団」にしかならない。
そして、安倍晋三を旗頭のようにしていた「在特会(在日特権を許さない会)」
そもそも「在日特権」など「無い」のに「在る」と言い張る面々が、過激で粘着質な行動を呼び起こす。
そもそもが「借り物」の軸である。
ほころびがすぐに現れはじめ、独楽はグラグラと揺れ出す。
それでも「軸」を失った彼らは、借り物の軸にしがみつき、だから今度は「軸」のほうがいい加減軋みだした。
日に日に軋み、壊れてゆく斉藤知事・・・・
そろそろ止めないと自分が壊れてしまうだけである。
だが、群がったゾンビたちがそれを許さない。
必死にしがみつくゾンビのような蔦草・・・・
兵庫だけでなく、大阪も、奈良も・・・・だそうである。
自民党が「何故」阿部派を一掃しようとしたのかわかるだろう。
「終われない」人々は「始められない」ということである。
安倍晋三という軸を終わらせ、維新という幻想を終わらせ、NHKという看板を終わらせ、在日特権という妄想を終わらせない限り、腐らせ行く蔦草のままあちらこちらに絡みつき、絡んだ先を腐らせて行く。
「終わらせない」限り何一つ「新しく」は出来ない。
それは「軸の無い独楽は回らない」という当たり前の道理である。
借り物の軸などそもそも「合わない」のだから、ろくに回ることなくコケるだけである。
「終わったものは終わらせる」
ただそれだけのことなのである・・・・・
つまりは「役」が「厄」となるわけである。
だから『厄払い』というものが存在する。
終わった「役」を祓って「終わらせる」ということである。
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