『歪んだ自己愛と自己投影』~「罪」から逃げる自己愛
自分を他者に重ね合わせることで、自己の中に存在する「醜い自分」を『承認』するという「自己投影機制」
それは、自分を「投影」した他者が『認められる』という結果に至って、はじめて『自分も認められた』という「自己承認感情」へと至るための「代替措置」である。
自分の中に「罪の意識」が生まれ、それを解消できないまま月日と共に「罪」が積みあがって、もはや解消しようにもできないほどに膨れ上がってしまった数々の「罪の意識」
部屋のゴミを掃除できないまま、いつしか溜まりに溜まって「ゴミ屋敷」となるように、心の中には解消されない「罪の意識」で溢れている。
そんなゴミ屋敷のような「罪の意識」で溢れた「心の屋敷」を『それはゴミじゃない、罪じゃない。』という「可能性」へと転換するために他者へ「自己投影」を行い、ゴミ屋敷を・・・罪の意識を「帳消し」にしたいのである。
それは『怠惰な自己愛』であり、ただ自己を「甘やかす」という愛であり、けっして「与えること」の無い「偽りの愛」である。
そして「類は友を呼ぶ」ように、自分に似た存在へと自己投影し行く。
「自分に罪はない」「自分は悪くない」
自分の『良心』に苛まれながら、心の中でそんな言葉を繰り返して「放置」してきたものが積もりに積もって、解消されない「罪の意識」を解消するために、「罪はない」「悪くない」という自分と似たような立場の他人に自分を投影して、その者が「罪はない」「悪くない」と認められれば、自分の「罪の意識」も解消される・・・・
そのために自己投影した他者が「認められる」ことを切に願う。
自分の「罪の意識」が「実は自分は悪くない」と認めさせようとすると、そこには新たな「罪の意識」が加増する。
まるで自分の罪を「誤魔化そうと」しているようで・・・・・
だが、投影した他者を「悪くない」と守ることは、「善意」へと転換できる。
けっして「善意」からやっているわけではなく、あくまで「自己承認」のためなのであるが、自分のためではなく「他者のために」やっているという「奉仕」の衣を被せることが出来る。
つまりは「言い訳が立つ」ということだ。
人は生きている中で「しょっちゅう」自分の良心の「痛み」に蓋をする。
そうして蓋をした心の内側は、いつしか「ゴミ屋敷」のように「良心の呵責」が積もっている。
そんな「ゴミ」を外にまで撒き散らし、誰かにお仕着せることで「掃除」したつもりになろうとする。
堕落した自己愛の精神を、誰かに自己投影をすることによって。
だから世界はこの「腐臭」のする「善意」で溢れている。
その投影先が『神』であったり『人』であったり・・・・
だから多くの「宗教」というものから「腐臭」が漂い、スピリチュアルという「人が集まる場所」には「腐臭」が漂い、様々な社会の場所で「投影」という『投棄場所』を設け、人を集めては腐臭のする善意で包んだゴミを『投棄』させている。
「ファンです」と言いながら、「投影」してゴミを「投棄」しようとしているばかりの人々。
「神様」と言いながら「善意に包んだゴミ」を投棄し続ける人々。
自己投影して「ゴミ投棄」出来る場所を提供する場と化した人々の集まり・・・・
それらが集団となって「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という論理で「ゴミ」を投棄し続ける。
どこもかしこも腐臭が漂う。
堕落した「自己愛」が生み出す「承認欲求」は、「ゴミ投棄」をする「自己投影」としての存在を求めて徘徊している。
そしてどこかの「集団」に属し、一時、それが「ゴミ」ではないという感覚を共有する。
だがその集団を離れれば、再び「ゴミ屋敷」へと還ることとなる。
だからまた「投影先」を求めて彷徨い、集団へと帰属し行く。
「良心」は人が生きるための「指針」であり、それこそが『神の意』である。
しかし、そこに『蓋』をして『神』を求めてもけっして届かない。
求めているのは「罪」の「投棄場所」である『神』となる。
善意の衣で包んで投棄できる場所・・・・
もはや「捨てる」ことが当たり前となった「罪の意識」
だから世界は罪で溢れている。
ひふみ神示 上つ巻 第一帖
二二は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初まって二度とない苦労であ る。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土があかる、外国はお土がさかる。都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、その積りでかかって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来るは神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。戦は今年中と言ってゐるが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。
大洗濯が始まって、掃除出来ていない者は『穢れ』として「洗濯(選択)」される。
明瞭に「選択(立て分け)」されているのがわかるだろう。
大鳴門の🌀(渦)は『アワミチ(淡路)』から始まっている。
その🌀が兵庫県を渦巻いて、「洗濯(選択・立て分け)」しているのがよくわかるだろう。
大祓いで祓うのは『罪』である。
罪の意識、良心の呵責という「罪」を溜めこんでいるものが『大洗濯(大選択・立て分け)』されている。
それは日本全土に広がり、やがて外国へと広がってゆく。
『アワ(アウワ)』というフトマニの中心の『三柱の神』へと至る道が「アワミチ(淡路)」
それは鳴門の🌀を超えてようやくたどり着ける場所。
堕落した「自己愛」による「自己投影」で超えられる場所ではない。
自分の良心に向き合い、自分の良心の光を自分の軸としたときに、初めて神柱が立つ。
その柱が「アワミチ」であり、岩戸を開くナギナミ神が巡る道である。
その柱に「身・口・意」が一致して、第四チャクラという「芯(心)」となる「軸」が、天地の岩戸と「一直線」となり、天地の岩戸(第七、第一)のチャクラが開く。
当然「天(火)が先」であり、ゆえに「第七チャクラ」が開く。
その天からの意の光が第六チャクラに火を灯し、シヴァが目覚めてシャクティを呼ぶ。
第六チャクラ(火)から第二チャクラ(水)へ火雷神(稲妻)が落ちてシャクティが目覚め、瑞産み(湖)に神の子を孕み、地引の岩戸(第一チャクラ)を開いてカグツチ(クンダリーニ)が誕生する。
カグツチ(クンダリーニ)は真っすぐに父であるイザナギ(シャクティ)の元へ昇り、十拳劔によって殺される(転化される)。
そうして五葉花である五つの桜花(チャクラの花)は開花し脈動を始める。
こうして【天・地・人】の「岩戸」が開き、ようやく『三種の神器』がそろった「人の器」に【神】が降臨するのである。
一番最初の『掃除』をすっ飛ばして、何も起こらず進まないのは当然のことである。
掃除もせずに「良心」に蓋をして、神懸かりしようとすれば「霊懸かり」となるのは当たり前のこと。
腐臭漂う「霊懸かり」が、ゴミ捨て場を求めて徘徊している様は、腐れた餓鬼畜生が彷徨う地獄絵図そのものである。
ゴミ屋敷に降臨する【神】とは何ぞ?
五十黙示録 紫金之巻 第三帖
伊豆幣帛(いづぬさ)を 都幣帛(とぬさ)に結び 岩戸ひらきてし
ウヨウヨしてゐる霊かかりにまだ、だまされて御座る人民多いのう、何と申したら判るのであるか、奇跡を求めたり、われよしのおかげを求めたり、下級な動物のイレモノとなってゐるから、囚われてゐるから、だまされるのぢゃ、霊媒の行ひをよく見ればすぐ判るでないか。早うめさめよ、因縁とは申しながら、かあいそうなからくどう申して聞かせてゐるのであるぞ、マコトの道にかへれよ、マコトとは〇一二三四五六七八九十と申してあろう、そのうらは十九八七六五四三二一〇で、合せて二十二であるぞ、二二が真理と知らしてあろう、二二が富士(不二、普字)と申してあろうが、まだ判らんか。
伊豆幣帛=五色のミテ(御手)グラ=五体、五臓、五腑、五感
都幣帛=五色のト(戸)クラ=五チャクラ
下つ巻 第二十二帖
岩戸開く仕組 知らしてやりたいなれど、この仕組、言ふてはならず、言はねば臣民には分らんし、神苦しいぞ、早う神心になりて呉れと申すのぞ、身魂の洗濯いそぐのぞ。二三三二二(アイカギ)、・〇⦿、コノカギハイシヤトシカテニギルコトゾ。一二⦿(ひつくのかみ)
鏡=石板
劔=杖
勾玉=壺
火(鏡・劔・勾玉) 水(石板・杖・壺)
アイカギ=合わせ鏡
イシヤトテヲニギル=火水(ひみず)合わせて火水(神)となる=・(火)〇(水)⦿(火水・神)
もはや『岩戸開く仕組(すべ)』を知らせているのだが、九分九分九厘の人々は最初の『掃除』で躓いておる。
肝心の『掃除』をすっ飛ばして、ゴミ屋敷の心に神を降ろそうとしている。
だから『心の状態』に見合った『霊懸かり』となるだけなのである。
もしくは【神】は寄りつけず、降りる隙間もない。
アイカギの 合わせ鏡は 日月鏡
日本晴れ 日月鏡の 曇り晴れ
合わせ鏡の曇りが晴れぬうちは岩戸は開かぬ
【神】という名の『良心』が写らぬ心に、その身は『良心』を体現出来ぬではないか
『良心』から逃げ続けている心と身体に、神を降ろせど霊懸かりとなる
『良心』という【神】を失い彷徨う【霊】に懸かられるケモノとなるばかり
ひふみ神示 第一巻 上つ巻 第一帖すら超えられぬのに、どうして「その先」へ進めるか?
二二は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらはす代となれる、仏もキリストも何も彼もはっきり助けて七六かしい御苦労のない代が来るから みたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ。いま一苦労あるが、この苦労は身魂をみがいて居らぬと越せぬ、この世初まって二度とない苦労であ る。このむすびは神の力でないと何も出来ん、人間の算盤では弾けんことぞ、日本はお土があかる、外国はお土がさかる。都の大洗濯、鄙の大洗濯、人のお洗濯。今度は何うもこらへて呉れというところまで、後へひかぬから、その積りでかかって来い、神の国の神の力を、はっきりと見せてやる時が来た。嬉しくて苦しむ者と、苦しくて喜ぶ者と出て来るは神の国、神の力でないと何んにも成就せん、人の力で何が出来たか、みな神がさしてゐるのざ、いつでも神かかれる様に、綺麗に洗濯して置いて呉れよ。戦は今年中と言ってゐるが、そんなちょこい戦ではない、世界中の洗濯ざから、いらぬものが無くなるまでは、終らぬ道理が分らぬか。臣民同士のいくさでない、カミと神、アカとあか、ヒトと人、ニクと肉、タマと魂のいくさぞ。己の心を見よ、戦が済んでいないであろ、それで戦が済むと思うてゐるとは、あきれたものぞ、早く掃除せぬと間に合わん、何より掃除が第一。さびしさは人のみかは、神は幾万倍ぞ、さびしさ越へて時を待つ。加実が世界の王になる、てんし様が神と分らん臣民ばかり、口と心と行と、三つ揃うたまことを命(みこと)といふぞ。神の臣民みな命(みこと)になる身魂、掃除身魂結構。
御言(ミコト) 尊(ミコト)し 命(ミコト)する
・(ミコト) 十(ミコト)し 卍(ミコト)する
初めの・(御言)は「神」の光 「罪」を意識させる光である
「罪」の意識を湧かせぬには 光に沿って口と心と行いを一致させること
掃除洗濯御魂磨き 神を写す合わせ鏡
岩戸を開く要なり
合わせ鏡で【悪魔】を呼ぶなかれ・・・
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