『所属』の奴隷 ~承認欲求という名の「所属欲求」





いつからか・・・日本人までもが外国の思考に呑まれ、「所属」の奴隷となる『型』が社会に蔓延していった。


「所属」と「権利」と「誓約」という『塀の中』の三点セットを得るために、人は隷属し行く・・・・




人々の根っこにある「恐れ」

それが「所属」という「承認欲求」


それは純粋な欲求ではなく、「恐れ」からの逃避

「所属」出来ない「恐れ」からの「逃避」である。




学べる人と学べない人の「差」というものがある。

純粋な「知りたい」という欲求から学ぶ人は知識を積み上げ知恵へと転化するが、「所属」出来ない「恐れ」からの「逃避」で学ぶという「型示し」をする人は、知識を積み上げることはなく、知恵へと転化することもかなわない。


単に「所属」の「承認」を得るための「型」であり、それは「誓約」をもって「所属」する「権利」を得るための「型」

『学校ビジネス』という「奴隷養成」が横行する社会の根腐れそのものである。



ただ純粋に学びたい者は「知識の山」を休みなく登る。

しかし、「所属」のために学ぶものは、塀の内側に入った途端に「学んでいる」という「型」を止めるため、いつまでも山の裾野で徘徊するばかりとなる。

そして「登らない」からやがて「所属」の「権利」を失い、再び「恐れ」からの「逃避」で別のことを学び出す。

だがそれも「所属のための型」であり、結局「所属」がかなった途端に「登る」のを止める。

そうして再び「裾野を徘徊する」という同じことを繰り返してゆく。



それは「学校」だけでなく、宗教や活動する団体や様々な「集合体」というものも同様である。

何らかの「カテゴリー」の「集合体」に所属するという「安心」は、『塀の中』が安全であり『塀の外』が危険であるという「恐れ」の妄想から逃げるための欲求。




だが、「安心」を得るための「塀」が、実は「分断」を生み出し「対立」をもたらしているわけで、だからこそ「塀の外側」が「危険地帯」となるのである。

そして、「危険地帯」が増えれば増えるほどに人は「塀の中」へと安心を求め行き、さらに塀を堅固にするため「所属意識」を強めてゆく。


しかし、「所属意識」を強めれば強めるほどに「排他意識」が同時に強まってゆくため、より「分断」と「対立」は強くなって塀の外側の「危険度」は増してゆく。




『恐れ』を自分の中心軸に置いてしまった人々が辿りゆく『八岐大蛇』の世界となる。



アマテル神は「佐久那太理(さくなだり・崩れ落ちるように)」南宮の瀬織津姫に惹かれていった。

ゆえに反対側にある北宮の「真洲姫」へとスサノオ神が「補填」するように惹かれて行った。


スサノオ神は「示現」の神である。

よって「恐れ」は示現し「真洲姫」は「悲しみ」へと逆流してゆき『八岐大蛇』となっていった。


神話の中でスサノオ神が「泣いている」のは「真洲姫」の「心の示現」であり、「恐れ」から「悲しみ」へと逆流したのが「天の斑駒の逆剥ぎ」である。

そして、その「逆流」は南宮の典侍であった瀬織津姫の妹「稚姫(喜びの機織り)」を殺したわけである。


真洲姫の三御子神である三女神も「西宮」へ逆流し、そこで瀬織津姫は「宗像」へ預けて御子神たちは育てられる・・・ということとなる。

そして「西宮」から「瓜生姫」が「南宮」へと向かい、そこで「逆流」を食い止める。


亡くなった「稚姫」を瀬織津姫が「死返し(まかるがえし)」を行い復活させた。

それが「木花咲耶姫」であり「岩長姫」である。

なぜ二神が誕生したか?

それは稚姫を殺した八岐大蛇の一部が「死返し」によって「岩長姫」として誕生し、岩長姫は生まれながらにして「穢れを浄化」する運命を負い、ずっと「禊ぎ」を行ってきた。

そして、木花咲耶姫は空席になった「北宮(出雲)」の「ニニギノミコト」へと嫁ぎ、ようやく「東西南北の宮」はその形態を保つに至った。


だがそれはまだ「歪み」である。


それが神話である。


そして神話のとおりに流れは「逆巻いて(逆剥ぎ)」歪んだままの世界が続いており、ゆえに人々は根っこに「恐れ」を抱えている。





神の世界はすでに浄化されている。

伊豆能売の神々が各宮に配し浄化したからである。




しかし、人の世はまだ「神世」を写せず浄化されていない。

だから多くの人が未だ「恐れ」から逃れようとしている。



「恐れ」から逆巻く世界は「一時小休止」しているだけである。

それは「流れ」が小休止しているだけであり、逆巻いて静止した時の「歪み」はにじみ出てくる。

それを「浄化」し続けてきたのが祓戸の神々である。

高天原から地に下り、逆剥ぎによって生まれる「穢れ」の便所掃除を続けてきている。




神界の正常化が反映しないのは、途中(間)の神々の世界が未だ歪んだままだからであり、だから「歪み」が未だ反映されている事態となっている。

途中の神々・・・・

いわゆる「守護」と呼ばれる次元世界の神である。



守護神が歪んでいるのに現世の人が歪みを正せるわけはない。


守護神が「恐れ」から逃げて「塀」の中に引きこもっているのに、人が「塀」から外に出られるわけがない。

なぜなら「塀の中」へと導かれているからである。



導きを受ければ受けるほどに「歪み」へと導かれる。

それが現状である。




神霊界の守護共々に人は「所属の奴隷」と化している。

所属することで安心を得、所属することで対立を生む。


「逃避」という「逆巻き」が巡りを狂わせており、「逃避癖」が巡りを淀ませている。

「恐れ」から「悲しみ」へ向かい「喜び」へ至ろうとする「逆巻き」である。



未だ三女神は宗像(西宮)に祀られ、木花咲耶姫は出雲(北宮)に祀られ、瓜生姫は南宮に祀られ、未だに瀬織津姫は便所掃除神として奉られ・・・・

逆巻き歪んだ世界のままの「型」を続けている。


そして何よりも「内宮」が「伊勢」へと移動したままである。

同じく「北宮」は「出雲」に移動したままであり、「南宮」は関が原に移動したままである。


それは、取りも直さず「逃げ続けている」という「型」を出し続けているということとなる。





癒奏術・響庵

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