『学』を【神】と戴く【学賛教】 学と神の最後の戦




福沢諭吉という人の「優生思想」と「学問のススメ」が結びつき、いつしか【学賛教(学問賛美)】という宗教に侵された日本人は、「学」によって人間の「優劣」をつける「優生思想」を内在させた「学問賛美」の道を進み、『教育の中に学問賛美の優生思想』を内在させることで『差別』を人の心に植え付けた。


『教育過程』における「学問」の中に様々な「意図」を仕込み、それを忠実に学び、実践する者を「エリート」という「優生上位」の位置づけをすることで、人はそれ(意図された学問)に忠実となり、そこ(学問)から起こる差別や格差を「必然的に受け入れる」という「結果」が訪れた。



第二次世界大戦において日本が「負けないため」の戦略、戦術を立てて遂行しようとするたびに、学賛教エリートは「戦略を歪め」てゆき、「負ける」ことを目指して日本軍の戦略を歪めてゆく。


『敗戦革命』


「敗戦」によって日本がダメージを受け、混乱と枯渇する中で「日本」という国を『世界と同じ』という「同一化」へと向かわせるため、「日本人」というアイデンティティを司るものを「排除」する『教育』を始めることとなる。


中国や韓国で「反日教育」が行われているのと同様に『日本人にも反日教育』を施し始める。

現代の言葉で「自虐史観」という「反日思想」を徐々に教育の中に取り込み、アイデンティティを少しずつ「削っていく」というものを「教育に内在」させていった。



その甲斐あって日本人は「西洋先進国」というものを『賛美』し始める。

彼らの植民地支配をかつての日本人がことごとく排除していったことを忘れ、完全に「自虐史観」が浸透した日本人は、もはやほんの数十年前の近代史すら「記憶」の中から消えて、「自虐史観」によって植え付けられた「優生順位」という差別思想によって自らの順位を「劣等性」のもと貶め、アイデンティティの「破壊」は着実に功を奏していることを証明する。


そうして『日本人の抵抗力』というアイデンティティに内在する「免疫機構」が働かないようにしたところで、日本を「ネオコロニー(新植民地)国家」へと進める計画が進行してゆく。


〈自由,平等,博愛〉を旗印とする形式的かつ観念的なブルジョア民主主義国家のもとで,植民地時代の庇護と分離政策とは違ってスペイン系住民と同一次元に置かれることになり,対内的には共同体所有地の強制的分解によって,対外的には世界市場の価格変動の直撃によって,二重の抑圧と搾取にさらされることになった。こうして独立後のラテン・アメリカ諸国は,政治的独立は得たけれども,ひきつづいて経済的従属下に置かれるという〈新植民地neo‐colony〉としての運命を,他大陸周辺部に先がけて経験することになった。 この期における中心部の植民地政策における大きな変化は,アメリカの独立(1783)に代表されるような移住植民地に対する支配の緩和と,〈非公式の帝国informal empire〉政策の出現である。
…(コトバンクより引用)



ネオコロニーとして指導した日本は、だが国内で「失われた三十年」という呼び名を使いだし、ようやく『気付き』という「免疫機構」が働きだす。


「共同体」が破壊され、じわじわと「真綿で首を絞めるように」抑圧と搾取が進行し、そして現在「世界市場の価格変動」が直撃することによって、ようやく「免疫機構」が「異物混入」を感知した・・・・というところである。


コロナ禍において世界で最も「ワクチン接種」をするという『実質免疫改変』を受け入れ「隷属性」の優等生ぶりを示したが、まだそこ(洗脳)に染まらない分子が「免疫反応」を引き起こし始める。


『教育』によって「アイデンティティ」に「上書き」をしたが、『教育』では塗りつぶすことは出来なかった。

日常生活というものに「染み付いた」日本人の特異性というアイデンティティまでを上書きすることは出来なかったためである。


自然現象という「必然性」によって、日常生活に内在されるアイデンティティの元となるものと、教育によって上書きされたアイデンティティの差異という「違和感」は残り続けており、その「違和感」が『少しの刺激』でより大きなものとなっていった。


コロナ禍という急ぎ過ぎた強引な「上書き」の試みは、かえって世界中の人々に「違和感」を増幅させることとなり、かえって「免疫機構」を目覚めさせる結果となった。


上書きをさらに強化しようとすればするほどに「違和感」は増大し、違和感と上書きされたアイデンティティの間で多くの人は揺らぎ始める。


ここで明確な差異が出る。


『教育』という「学問賛美」の優等生とされたものほど「教育」による「上書き」を重視し、そこから遠くに位置したものほど「免疫機構」が動き出すという現象が起きる。

つまりは「学問優生思想」から『外れたもの』ほど「免疫機構」が発動する・・・・ということである。



さらに上書きしようとする「優等生」と、「免疫機構」を発動させる「劣等性」

学問に内在された『優生思想』に「染まらない劣等性」が、アイデンティティの免疫機構を発動させ始めたわけである。



日本人特有の「免疫機構」とは・・・

日常の中に溶け込んだ免疫となるもの

それは日本人が歩いてきた『道』であり

道の中に溶け込んだ『神』という存在である






ひふみ神示 富士の巻 第三帖

メリカもギリスは更なり、ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ。神界ではその戦の最中ぞ。学と神力との戦と申しておろがな、どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、畜生にも劣りてゐるぞ。まだまだわるくなって来るから、まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、それでちりちりばらばらぞ。アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、この道理分らんか、剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。上下ないぞ、上下に引繰り返すぞ、もう神待たれんところまで来てゐるぞ、身魂みがけたら、何んな所で何んなことしてゐても心配ないぞ、神界の都にはあくが攻めて来てゐるのざぞ。



第二十三帖

世界は一つになったぞ、一つになって神の国に攻め寄せて来ると申してあることが出て来たぞ。臣民にはまだ分るまいなれど、今に分りて来るぞ、くどう気つけて置いたことのいよいよが来たぞ。覚悟はよいか、臣民一人一人の心も同じになりて居ろがな、学と神の力との大戦ぞ、神国(かみぐに)の神の力あらはす時が近うなりたぞ。今あらはすと、助かる臣民 殆んどないから、神は待てるだけ待ちてゐるのぞ、臣民もかあいいが、元をつぶすことならんから、いよいよとなりたら、何んなことありても、ここまでしらしてあるのざから、神に手落ちあるまいがな。いよいよとなれば、分っていることなれば、なぜ知らさぬのぞと申すが、今では何馬鹿なと申して取り上げぬことよく分ってゐるぞ。因縁のみたまにはよく分るぞ、この神示読めばみたまの因縁よく分るのぞ、神の御用する身魂は選(よ)りぬいて引張りて居るぞ、おそし早しはあるなれど、いづれは何うしても、逃げてもイヤでも御用さすようになりて居るのぞ。北に気つけよ、東も西も南も何うする積りか、神だけの力では臣民に気の毒出来るのぞ、神と人との和のはたらきこそ神喜ぶのぞ、早う身魂みがけと申すことも、悪い心 洗濯せよと申すことも分かるであろう。



第二十帖

神がこの世にあるならば、こんな乱れた世にはせぬ筈ぞと申す者 沢山あるが、神には人のいふ善も悪もないものぞ。よく心に考へて見よ、何もかも分りて来るぞ。表の裏は裏、裏の表は表ぞと申してあろうが、一枚の紙にも裏表、ちと誤まれば分らんことになるぞ、神心になれば何もかもハッキリ映りて来るのざ、そこの道理分らずに理屈ばかり申してゐるが、理屈のない世に、神の世にして見せるぞ。言挙げせぬ国とはその事ぞ、理屈は外国のやり方、神の臣民言挙げずに、理屈なくして何もかも分かるぞ、それが神の真の民ぞ。足許から鳥が立つぞ、十理(トリ)たちてあわてても何んにもならんぞ、用意なされよ、上下にグレンと引繰り返るぞ。上の者下に、落ちぶれた民 上になるぞ、岩戸開けるぞ、夜明け近づいたから、早う身魂のせんだくして呉れよ、加実の申すこと千に一つもちがはんぞ。



癒奏術・響庵

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