『チャクラの開花とクンダリーニの目覚め』 ~その1・天地のチャクラを開く 《神人一致の理》





一般的に言われる「チャクラ」というものは「何なのか?」

そして、チャクラが「開花」すると「どうなのか?」


語る言葉は多けれど、その『実(じつ)』を語る言葉は少ない。






チャクラは基本的に『七つ』というのが最も語られているものであるが、その『七つ』は『二つ』と『五つ』に分けることが出来る。

それは『用途』というか『存在目的』というか・・・その違いによって『二つ』と『五つ』に分類出来るわけである。



そのチャクラの『二つ』であるが、これはまさしく『岩戸』であると言える。

一般的に「第一チャクラ」とされるものは『地引の岩戸』であり、「第七チャクラ」とされるものは『天の岩戸』である。


『地引の岩戸』とは『地のエネルギー』である『身のエネルギー』の『門』であり、『天の岩戸』とは『天のエネルギー』である『霊のエネルギー』の『門』となる。


つまり、チャクラは「地から天」へ、「天から地」へと双方向に向かうエネルギーの通り道に存在するもので、それは「身体から霊体」へと流れる道に咲く『華』なわけである。

そのエネルギーの道にある「五つのチャクラの華」は、二番から六番へと進むにつれて、身体的な領域から霊的な領域のものとなる。


そして、その「通り道」を開通させるためには「天地の二つのチャクラ」の『開門』が先に行われなければならない。



また、『開門』したのちに『道を通す』という作業が必要であり、それを行うのが『クンダリーニ』のエネルギーである。

この『クンダリーニ』のエネルギーは「地から天」へと昇る『昇龍』であり、これによって通り道上にある五つのチャクラにエネルギーが送られて、それぞれのチャクラが『開花』するわけである。


だが、この『クンダリーニの龍』が目覚めるためには、先に『天の門』が開かれて『天上からの導き』が必要となる。

そして、天からの『導き』が無ければ「クンダリーニ」のエネルギーは『龍』とはならず、蜷局を巻いた『蛇』となり、「地(身)」を這いまわるエネルギーの『淀み』と化す。



これらの『実像』『実証』が無く、むやみにチャクラやクンダリーニの開発を進めても、それは本来在るべき『実体』に到達することなく、よって「何も起こらない」わけである。

ただただエネルギーの「充足感」を勘違いで感じ、実は「エネルギーの淀み」となっていることを知らずにいたりするわけである。


だからチャクラの3番あたりまでで滞留していることが多く、それは「地(身)」の領域であり、「霊的領域」の覚醒は望めないものとなる。



「天の岩戸」が開かなければ、霊的視野は開けず、霊的思考に至らず、結局は「身主体」の視野思考から脱することが出来ない。

そして、出来ないうちにさらにエネルギーを供給すれば、「身主体」の視野思考はより強化され、霊的覚醒からより遠のいてしまうこととなる。



先にも記したが「エネルギーの流れは双方向」である。

ゆえに「天」から降りてくるエネルギーもしっかりと受け止めなければならない。

そして、そこに『導き』が降り注ぎ、その『導き』の先導をもって「クンダリーニ」は上昇する『龍』へと進化することが出来る。



そして、クンダリーニのエネルギーが『天』へと昇り、さらに『天』から『降り龍』となったエネルギーが『地』へと降りることで、天地の間にある「五つのチャクラ」は華開く。

そう、クンダリーニのエネルギーは『昇り降り』を循環するように巡る『龍』であり、その『龍』は自らと一体となった『龍人和合』の状態の「自分自身」である。


『龍人和合』することで、天界地界を自在に行き来できる存在へと進化する。

それは『霊身和合』を意味し、自らの魂が自らの身体の『主(あるじ)』となった証であり、それが『龍人和合』『霊身和具』の『実証』である。


そしてそれは仏教でいうところの『観自在』の『実(じつ)』であり、人が『菩薩』へと転化した『実証』である。


『騎龍観音』が描かれた絵が昔からあるが、その実は「龍人和合」の状態であり、霊的世界への『扉』を開いて渡る『観自在菩薩』の状態、『般若波羅蜜多』を実現した状態となる。



そして、『地上』である「現界」と『月』である「霊界」を行き来する『龍』となるわけで、これは『伊都能売神』であるところの『乙姫命』の導きにより完成する。

月に坐す『豊玉姫』、地上に坐す『玉依姫』は『満干の珠』

『乙姫命』の持つ宝珠である『満干の珠』の力の『流れ』による『道』が「クンダリーニ」の『通り道』である。





かつて「オーム真理教」の「麻原彰晃氏」は自らの体験で『天の岩戸』を開いた。

そして、それを実現する道場として「オーム真理教」において「第一チャクラ」を地にたたきつけるようにして「第七チャクラ」である頭頂の「岩戸」を開く・・・という修行を信者にさせていたようである。

それを見て、ある意味感覚的に真理の一旦を掴んでいたのだな・・・と思う。

それで本当に開門できるかはわからないが、当たらずも遠からず・・・・といったところに思える。



最近、「VR感」という言葉が生まれ使われている。

これは「VR機器(ゴーグルのような映像機器)」で見ている映像の中の環境を、そのまま体で感じる感覚のことを言うようである。

たとえば、映像の中が「冬の雪山」であったなら、実際は部屋の中にいるのだが、なぜか「寒さ」を感じるというもの。


これは「錯覚」ではなく、意識に引っ張られた身体の「反射反応」である。

「寒さ」を感じるのではなく、「寒い」時の身体の「反射反応」が「意識」に引っ張られて起こっているわけである。


これは何も「VR機器」が無い昔から認知されていることで、焼け落ちる「本能寺」の中で禅僧たちが『心頭滅却すれば火もまた涼し』と言ったことと同じである。




かなり昔に「瞑想」の中で「高い絶壁」から遥か下方に広がる森林へと飛び降りたことがある。

意識の中で、現実的に「起こっている」かのような「想像」された「映像」の中に身を置いているようなリアルさは、前述の「VR感」と全く同じ「身体反応」を引き起こし、それによって「天の岩戸」が開いたことがあった。

それは「開く」というより「岩戸が弾けた」というほうが近い。


ジェットコースターなどに乗ると、風がおしりから体の中を「ヒュッ」と駆けあがるような感覚があるだろう。

また、夢の中で「落ちる」ような夢を見て目が覚める時、身体の中を「ヒュッ」と風が頭の方に向かって駆け上がるような感覚と共に目覚めるだろう。


崖から飛び降りる瞑想をしていたら、それと同じような感覚でより強烈な感覚が起こったと思ったら、頭頂部で、まるで電気がショートした時のような「ボンッ」という破裂音と共に目の前が真っ白になった。


この「おしり」から「頭頂」へと駆け抜けた「風」の通り道が「クンダリーニの道」である。

そして、身体の中を駆けあがった「風」は「気」のエネルギー。

電気的なエネルギーであり、それが頭頂部で「出口」を求めて「ショート」することで「岩戸」を破壊したわけである。


だがこれは「クンダリーニ」のエネルギーではない。

「弾み」ではからずも「天の岩戸」が弾けて「開いてしまった」というものであり、意図せず起こった事故のようなものだろう。



おそらく麻原彰晃氏はこの「事故」のようなものを「覚醒」ととらえて、だから「覚醒」のための道場を開いたのであろうと思う。



だが、この「岩戸開き」は「クンダリーニ」が『龍』となるためには必要なものであり、わずかばかりでも「道」がついていたことで、いつでも「通れる」状態にあり、そして『天』からのエネルギーや導きが「通れる」状態であったから、クンダリーニを「呼び起こす」ことが出来たわけで、起こされ導かれたからこそ「天」へと昇る『龍』となり、「地」へと降る『龍』ともなったわけである。


そして、クンダリーニの『龍』の目覚めと共に「五つのチャクラ」が華開き、そし

て「回転」し、活動を始めることとなる。




岩戸を開く上でもう一つ大切なことは「地に足を付ける」ことである。

多くの人はまるで「薄氷」を踏む如く、薄い氷の上に立ち、いつ割れるかと心配しながら歩いている。

そんな状態では意識は散漫になり、つねに心は揺れて定まらない。


だから、自ら「薄氷」を割って大地に降りたつ必要がある。

なんなら落ちても構わない。

落ちる時に「開門」するかもしれない。


そうして大地にしっかりと足を付けた状態でなければ、クンダリーニのエネルギーは「昇龍」となれるほど活性しない。

だからそのための「心の掃除」「身の回りの洗濯(選択)」をしなければならないのである。

そうしなければ真上(天)からの導きなど受け取れないのである。

自分の芯に「ブレ」があれば、真上から真っすぐに降ろされる導きは「芯」を外れてしまうからである。


天地の真っすぐな「道」と同じように、自分の「天地の門」が真っすぐでなければ、天地のチャクラは繋がらず、道は通らず、天地人の循環は無い。

そして、「天地の門」を真っすぐにするということは、自らの「身」と「魂」を「真っすぐ」にするということである。

魂本来の意志と身体の意志がズレていれば、天地の岩戸もズレている。

だから「身の思い(人の思い)」は「天」に届かず、「天の思い(神の思い)」は「身(人)」に届かない。


だから、クンダリーニやチャクラを開発する前に、天地を真っすぐ整えて、門を開き道を通すことが先なのである。




癒奏術・響庵

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