『才能は遺伝』 ~才は差異
『能力は遺伝によってすでに決まっている』
頭脳的な能力も身体的な能力も・・・
多くの人に絶望をもたらす事実である。
それはそうだろう。
当たり前のことである。
その「当たり前」に絶望するのは、それが「当たり前」であることを『知らない』からであり、なぜ知らないかと言うと『見方』が間違っているからである。
これも「養老孟司先生」が言っていたことであるが、何でもかんでも『同じ』に見るのは人間だけである。
だから、自分と他人を『同じ』ものだと勝手に見ていて、いざ『差異』が出ると絶望する。
だから、そもそも『同じ』に見ている『見方』が間違っているだけである。
杉は杉、柳は柳、楠は楠、桜は桜、キュウリはキュウリ、トマトはトマト等々・・・・
さらに、猫は猫、虎は虎、狐は狐、狸は狸等々・・・・・
数えたらキリがないが、それらは全て『遺伝』で決まっている。
人間だけ「遺伝」で決まらないわけがない。
にもかかわらず、何故か「同じ」に見ている。
一人一人の「違い」を見ていないのである。
これも人間だけの習性であり、動物は人間一人一人を「別物」として見ている。
要は「目が曇っている」のである。
自分すらまともに見れていないのに、どうして他人を見極められるのか。
人間以外のすべての生き物は、自分そのままの「在り方」で生きる。
それを人間だけが出来ない。
だから、トマトが杉の木になっていたり、柳がカボチャになっていたり・・・・・
天地まぜこぜの滅茶苦茶な有り様である。
だから自然の世界は平和なのに、人間世界だけが混沌としているわけである。
自分が何者で、自分の在り方がわかっていれば、他者が何者でどういう在り方がいいのかわかるはずである。
肩書きと中身が合っているか合っていないかなどすぐにわかるであろう。
自分に出来ること、出来ない事、可能性があることなど、自分をしっかり見つめていればわかるものである。
わらないのは自分を見ていないから。
ただ自分の感情に振り回されて、外の景色に振り回されて、何処を見ればいいかもわからないのであろう。
出来ないことを努力して出来るようになることは良いことであるが、それは自分が在るべき形なのかどうか。
海辺の浜近くに杉の木が努力して育っても、それは杉の木の在り方からは外れ、さらには杉としての才が死んでしまうこととなる。
どう考えても「松」だろう・・・・
「同じ」に見るということは、そんな浜辺に杉だろうが山桜だろうがトウモロコシだろうが何でもかんでもそこに植えるようなものである。
そして、そこで生き残るのはやはり「松」のような木となる。
ここ数年、「自分の在り方」などと言う言葉があちこちで飛び交っていたが、「自分の在り方」に辿り着けた者はどれほどいるのだろうか?
たぶん、ほとんど居ないであろう。
それは結局「見方」が変わらないからである。
「同じ」という見方に囚われたまま、さらには「自分の見られ方」ばかり気にしているから、いつまでたっても自分自身に辿り着けない。
「同じ」という見方をしているから、他人との「差異」を受け入れられず、「松」でもないのに必死になって浜辺に根付こうとしているようなもの。
そして「出来ている」ということを誰かに承認してもらう・・・・
そんなことばかり繰り返している。
自分の「才」に気付くには、自他の「差異」に気付く事が大事であり、気付いた「差異」を認め受け入れなければ、「才」は磨けず開花しないままでけっして次には進めない。
受け入れないまま進めば、結局は初めからやり直しが続く永遠のループにはまり込んでしまうだけなのである。
「差異」を知らなければ自分の居場所さえわからず、自分を根付かせられないまま一生を終えることになる。
「同じ」ではない「違う」ということを認め理解したとき、自他の「差異」の中から「才」がようやく見つかるのである。
自分という人間の「差異」を知り、そこから掴んだ「才」を磨き、在るべき場所で根付けば、それが「自分の在り方」を生きることとなる。
親が悪い、先祖が悪い、世間が悪い、社会が悪いなどと言っているうちは、自分の中に眠る「才」の原石がほったらかしにされていることだろう。
その「才」の原石は「遺伝」によって受け継がれているものである。
自分の中の原石をさっさと見つけて、自分が居るべき場所で、在るべき姿で磨くことである。
杉や山桜は山へ、トマトやキュウリは陽の当たる平地へ、蓮や葦は水の中へ・・・・
居るべき場所へ、在るべき姿へと帰るため、「同じ」の檻から出て「才」を見つけて磨け。
ひふみ神示 五十黙示録 五葉之巻 第九帖
平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地をよくみよ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな、一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。
人民は選挙と申すマヤクに酔ってゐるぞ、選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。他に方法がないと定めてかかるから、悪魔に魅入られてゐるから判らんことになるぞ。世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ。
ひふみ神示 下つ巻 第十一帖
けものさへ神のみ旨に息せるを神を罵る民のさわなる。草木さへ神の心に従ってゐるではないか、神のむねにそれぞれに生きてゐるでないか、あの姿に早う返りて呉れよ、青人草と申すのは草木の心の民のことぞ。
道は自分で歩めよ、御用は自分でつとめよ、人がさして呉れるのでないぞ、自分で御用するのぞ、道は自分で開くのぞ、人頼りてはならんぞ。
0コメント