『プロパガンダの根』~朽ち行く世界樹
日本が第二次大戦で敗戦してから、もはや三世代、四世代となっている。 これだけの時が流れれば、プロパガンダも根付くというものだ。
今や日本人の多くが疑うことなく「それが一番」と思っている『民主主義』 もっと詳しく言えば『アメリカ型の民主主義』であり、そしてそれを浸透させ定着させるために、対比として『共産主義』という仮想敵を設定し、より強固なプロパガンダ効果を作り出してきた。
それはなにも日本人に対するだけのものではなく、当のアメリカ国民に対しても同様に行われたプロパガンダであり、そして『民主主義』と『自由』を結び付けることで、ある意味「自由の象徴」のように誤解させ続けてきた。
元来、自由を勝ち取るためには民衆そのものが戦わなければならない。 その後の政治的仕組みが何であれ、自分で勝ち取らないところに「自由など無い」のである。
だが、それを「いかにも勝ち取った」かのように錯覚させるのが『選挙』であり、それはまるで『スポーツ観戦』の如きもので、これこそ『3S政策』という『プロパガンダ政策』に沿ったコントロールシステムである。
オリンピックや世界大会などの試合を見るように、選挙というものは行われており、ひとつの『祭り行事』と化してきた。
そこに登場する選手たちは劇場の役者にすぎず、『民主主義が正しい』というプロパガンダを定着させる役割を担っているわけで、だから「その役割を担わない」ものは排除されゆく。
そして、選挙の目玉は今や「政策」ではなく「ゴシップ」となり、完全に「3S政策」の「スクリーン、スポーツ、セックス」という『人が最も感情的に反射』する土台で行われている。
それが最上の選択であると根付いてしまった『民主主義』
しかしそれはただの「見た目」の装いでしかなく、それは共産主義であろうが帝国主義であろうが『何ら変わらない』ものである。
どんなカタチを取ろうとも、「絶対権力者」が常に居る。
それが「見える」か「見えない」かの違いだけであり、「見えない」のが『民主主義』という「装い」というだけのこと。
まるで民衆の思いを『反映』出来るかの如く装うための『選挙』という「スポーツ観戦」しているだけの『祭り』であり、チームを応援しながらあくまで『観戦』しているだけで「戦った気になる」わけで、それはつまり「戦った気にさせている」ということである。
今日は「この人」、明日は「あの人」
選挙のたびにコロコロ変わる移り気は、戦っているふりをして、ただただ「ヤジ」を投げかけているだけの人々である。
それは、ただ単に「自分の心地よさ」のために「応援」しているふうに装っているだけで、「応援するという根っこ」のない「芯」のない、闘技場で熱狂して「殺せ!」と声を上げる観客と何ら変わらないものである。
三世代、四世代続いた『3S政策』は、もはやどっぷり世界に根を張り、まやかしの自由を見せられ、まやかしの戦いを繰り広げさせられ、まやかしの平和を享受し続けさせられている。
そして、コロナによって人の思考はさらに悪化した。
自由の無い「民主主義」を目の当たりにしながら、一生懸命に「自由である」という理屈を見つけ、選択の自由などと「自由」を語りながら、無意識に「隷従」する姿をさらけ出した。
人類の7~8割は「自由」など求めてはいない。
より都合のいい「隷従」を求めているだけである。
そして、それを「自由」と呼ぶ。
つまり、世界で実際に「戦って」いるのは2割~3割のひとだけであり、例えば3割の戦いで「2対1」という割合になれば、残りの7割の人々は「2割」の勝ち組に隷従する。
それが世界の姿であり、人という社会の姿である。
これが「1対1対1」という三分割の割合になれば、7割の人々は「何処に行ったらいいのか」わからなくなる。
そしてそれが「1.2対0.9対0.9」という割合になれば、7割は「1.2」の方へと必然的に向かい、最終的に「8.2対0.9対0.9」となる。
要は「強者に群がる」というだけのことである。
選挙とはこの人々の行動真理の仕組みを利用したものであり、だから情報操作は常にそのことを想定して行われる。
だから民主主義でなくとも共産主義であれ帝国主義であれ『結果は同じ』なのである。
ただ「不満を解消」するためにシステムを変えているに過ぎない。
太古より世界の構造は変わらない。
ただ単に、それを「何と呼ぶか」というだけの違いであり、構造上のシステムは何も変わってはいない。
だが、歴史に残らない更なる「太古」のシステムは違ったものであるかもしれないが、それを知るすべはほとんどない。
時代が変化、変革という「新しさ」を求めているが、人々は相変わらず「選択」という手段ばかりを用いている。
だがその「選択」は「今までの見せかけを変える」というだけのものでしかなく、何一つとして「新しさ」などというものは無い。
「選択」しているうちはけっして「自由」などというものは手に入らない。
何を選択しようとも、既定のシステムの装いが変わるだけで、中身は何も変わらないのである。
水瓶座の時代は「自由」「平等」「博愛」へと転化することを求めている。
それは自然現象であり人の手ではどうすることも出来ない領域の「流れ」であり、その流れへ移行できるかできないかで、将来迎えるであろう「難局」の大小が変わってくる。
既定のシステムの「選択」の中にその流れに乗れるものは無く、もはやその流れの本流が来ているのに世界は転化することが出来ていない。
どころかさらに悪化している。
進化を求められている時に、逆に退化してしまっている状況なのである。
進化したつもりになって逃避しても、世界のどこにも逃げ場はない。
選択してただ進む・・・だけでは転化は出来ない。
「進化」というよりも「新化」せねばならないのだが、それをするには「根っこ」を張る『大地』をしっかり認識せねば、新しい種をまき芽を育てることは出来ないだろう。
「水瓶座の時代」は「風の時代」であるが、では「風」とは何なのか?
吹く風に流されて右に左に飛ばされるのは「根無し草」ということである。
「風」とは『慣らす』もの・・・
必然的に「平等」へと「慣らされて」ゆくために吹くのが「風」である。
そして、それは「止める」ことが出来ない「自由」であり、自由をもって博愛で慣らし行く・・・というこ。
太古より続いてきた世界の「支配構造」というカタチを、支配する者たちは「固定化」させようと必死になっている。
自然の摂理に逆らって「固定化」させようとしている中で、「固定化の争い」が起こっているため「変化」しているように見えているだけで、それはずっと続いてきた争いのカタチに過ぎず、何一つ「新しく」なることはない。
それはただの今までと同じ「進化」であり、今必要な「新化」とは程遠いものである。
世界の歴史は太古より「プロパガンダ」の歴史であり、それは最近に始まったものではない。
三千年の「神話」でさえプロパガンダに過ぎないのである。
だから、この三千年の神話さえ破壊しなければならないわけであり、それはある意味「共産主義者」たちと同じ思想となる。
だが、彼らと違うのは「新たな神話」を紡ぐという事。
それは、人の頭で紡げるものではなく、だから「神」と繋がるものが必要であり、だからそのような者たちが現れてくるわけである。
かつてヒットラーが予言したように「神の人」が「新化」の先導者となる。
そして、その予言の日時はもう間近に迫っている。
その予言は当然日本にもある。
もしかするとヒットラーはそれを垣間見たのかもしれない。
出口王仁三郎氏が語った「ミロクの神人」であり、日月神示に語られる「柱」である。
本当の「自由」を得るためには『創造』しなければならない。
「選択」ではなく『創造』である。
古き世界のシステムは朽ちてゆく。
だからそこにしがみついていれば、朽ちて倒れる木と共に朽ち行くだけである。
だから創造せよ
自分の魂から湧き上がる「衝動」に従って創造せよ
魂の源泉に辿り着かなければ、「新化」することは出来ない。
知識だけでは辿り着くことが出来ない新しいカタチ
そこへ至るために「朽ち行く木」から離れ、大地に根付くことである。
自らが新しい「種」となり、大地に根付くことである。
考える前に感じ取り、言語を超えた思考の先に「衝動」は具現化する。
それを成し得た者が、新たな神話を紡ぐ者となる。
それが予言された「神人」であり、新しい世界を導く者となる。
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ヒトラーの「個人的見解」も入っているだろうが、何を見てどう想像したのかはおぼろげに見える。
「今日から100年後といえば、すなわち2039年1月25日だ。諸君にはわからないだろうが、そのとき人類には真の究極の状況が起こっている。
そのとき人類は──少なくとも、いま言っているような意味での人類は、2039年1月、地球からいなくなっているのだ。
それは諸君、何かの異変か大戦か災害のために、2039年、人類が残らず滅びるという意味ではない。たしかに、それまでに多くの大難が続けて起こる。
1989年から1999年まで、世界は続けざまの天変地異と戦乱の中にあるだろう。
そのため一部の恵まれた国を除き、多くの国が飢える。
いくつかの国は崩れて燃える。
毒気で息絶える街もある。
2000年以後は、それが一層ひどくなる。
2014年にはヨーロッパの3分の1とアメリカの3分の1が荒廃してしまう。
アフリカと中東も完全に荒廃する。
結局、いまの文明は砂漠しか残さない。
しかし人類はそれでも滅びない。
わがドイツの一部と米ソの中心部、日本や中国は深い傷を負いながらも生き残る。
ただ諸君、それでも人類はいなくなるのだ。
いまの意味での人類は、そのときもういない。
なぜなら、人類は2039年1月、人類以外のものに“進化”するか、そうでなければ“退化”してしまっているからだ。
それをもっとはっきり言えば、人類の一部はそのとき、人類から、より高度なものに進化して、神に近い生物になっている。
人類から神のほうへ進化するのだから、それは『神人(ゴッドメンシュ)』と呼んでかまわない。
残りの大部分は、これも進化なのか退化というべきかわからないが、一種の機械になっている。
ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない『ロボット人間』になっているのだ。
それまでの気候異変と環境異変、政治と娯楽と食物、それから起こる突然変異が、そのようなロボットのような人間を大量に生み出す。
神人のほうも同様で、同じ原因から生まれてくる。
ただ突然変異が大脳にプラスに働いて、進化の方向がロボット人間と別方向になるだけだ。
その前段階の『超人(ユーベルメンシュ)』たちも、より進化して神人になる場合がある。
いずれにせよ、彼らはいまの人間の数次元上の知能と力を持つ。
彼らは団結して地球を支配する。それまでのあらゆる危機や問題は、彼ら神人たちの知能と力で急速に解決されていく。
ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。
これはある意味では気楽な身分だ。
戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。
食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。
ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。
自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。
しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。
こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。
一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。
これが2039年の人類だ。
その先もずっと人類はこの状態を続ける。
そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。
地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。」
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