『責任』という【業(カルマ)】
「責任」というのは『有る』とか『無い』というものではなく、ただただ【負う】ものである。
「責任」が『有る』とか『無い』という話になるのは、『負った』はずの者が知らない間に『放棄』したから、どこかに『所有者不明の責任』が生じるわけで、言い方を変えるなら、飼っていた猫を捨てたから「捨て猫」が生じているのと同じことである。
そもそも「責任」とは『役』の副産物であり、『役を引き受ける』というのが「責任を負う」ということであり、猫を飼う場合は『飼い主役』を引き受けたわけであり、その『役』を「演舞」が終わらない(猫が亡くなっていない)状態で『飼い主役』を勝手に『投げ出した』から「捨て猫」という「責任」が生じているわけである。
仮に役を降りるのであれば、引き継ぐ者(代役)を探して「交代」せねばならず、猫であれば「飼ってくれる人」を探して「交代」するということである。
それをせずに「投げ出す」から「捨て猫」という所在不明(所有者不明)の「責任」が生じてしまうわけである。
「責任」を途中で『投げ出す』ということで、投げ出した「責任」そのものは無くならない。
猫の存在が消えないのと同じで、責任の所在も消えないのである。
誰かが捨てた猫は誰かが「負わねば」ならないのと同じで、誰かが投げ出した「責任」も誰かが「負わねば」ならないわけである。
だから『誰の責任だ?』という「責任の所在」を問うている時、それを投げ出した誰かが居るということである。
「役」という「責」を投げ出し捨てたとき、それは「厄」となり「誰かが負う」はめになる。
それは【業(カルマ)】を蓄積させているということに他ならない。
人の世の常識と同じく、神の常識も何ら変わらない。
『お役目』を簡単に放り出せば、それは『厄』となって神へと還る。
自身の直系の「守護」が負い、蓄積すれば【業(カルマ)】の重みで沈む。
死ねば自身も沈む。
自身で選択して引き受けたはずの『役』を、喜び勇んで行えず、不満を募らせてしまえば、「役」はいつしか「厄」となっている。
その「厄」が周りに「災厄」を振りまく。
「厄祓い」とは自分自身の「厄」や、自分の周りに生じた「厄」を『祓う』もの。
そして『祓う』は『払う』であもある。
何で払う?
『福』で払う(祓う)のである。
だから「厄祓い」するときは「福払い(祓い)」も行わねばならない。
自分が勝手に降りて捨てた「役」が「厄」となり、それを誰かが「負ってくれた」ことへの『福払い(祓い)』である。
「役」を放り出し「厄」を生じさせたことで「陰の業(カルマ)」を積んだことに対して、「陽の業(カルマ)」という「福」を生じさせ、【調和させる】ために『福払い』を行うのである。
「責任」とはけっして『誰かに負わされる』ものではなく、自分で選んで『負っている』ものである。
自分の人生は自分の選択の先に在る。
その選択に自分以外の誰かが「決定」することは出来ない。
どんな時も・・・・である。
自分の人生を「誰かのせい」にしている時点ですでに「責」を捨てて「役」は「厄」となっている。
存在そのものがすでに「災厄」である。
自分の責を誰かに負わせたところで、負わされたものがその「責(役)」を負えるはずもなく、だからその「責」は「厄」となって浄化されずに残り、次の誰かへと引き継がれてゆく。
もし、先祖の誰かが自分の子に自分自身が負うはずの「役」を投げ出し、子に押し付けたなら、子はその「厄」を受け取らされたはいいが消化(浄化)できなければ「次の子」へと受け継がれる。
そうやって『血の業(カルマ)』は続くのである。
もし、あちこちに「役」を投げ出し捨てていたなら、その「厄」は「陰の業」として蓄積し続け、「血縁」という「役」に則って受け継がれてゆくものもある。
毎年、「厄祓い」をするときに、同時に「福払い」も行えば「業」はその都度清算される。
「福払い」とは『手放すこと』である。
「役」で得たものを手放せばいい。
「手放す」とは『握らない』こと。
無くなるなら「清算」されて差っ引かれたわけであり、すべてが還ってくるなら「清算」されても差し引き無しということである。
自分が行った「役」が「福」を巡らせていたのなら、利子がついて還ってくる。
「業(カルマ)」の負の資産が無ければ、死んだとき、それはそれは軽やかに上昇してゆくことだろう。
「神のお役」をやり遂げたなら、それはそれは褒美も至極であろう。
『役』とは『才』である。
『才』とは『個性』である。
『才』の無い、『個性』の無いところに『お役』は生じない。
火の神が水神の役など出来ないように、土の神が風神の役など出来ないように、『才』無き『役』は無いのである。
自分の「才」を顧みず、自分の「個性」を顧みない「役」はいずれ「厄」となる。
自分の心身を蝕み、周りへと波及してゆく。
そして昨今、「厄」が湧きに湧き、広がり世界を蝕んでいる状況が現出している。
世界に渦巻いている大渦は『業の渦』である。
その『業の渦』に巻き込まれ沈みゆくのは、自分自身の「役」が「厄」となり『業』を振りまいている者。
災厄の『業の渦』が「八岐大蛇」であり、それを発生させているのは他ならぬ『人の業』である。
業の清算は出来ているか?
本当に出来ているか?
「厄」を放っているならば、業の渦である「厄」も自身の一部である。
八岐大蛇の一部なのである。
自分が背負えぬ「役」を背負って、気が付けば「役」が「厄」となっていることも多々ある。
『罪』とは自分が振りまいた「厄」である。
自分と役が『合っていなければ』当然『厄』となり、災厄を振りまき罪をつくる。
「自分に還る」ということは、自分の「才」、自分の「個性」に沿った「役」に還ることである。
それが合わずに歪んでいれば、【自分軸】など到底できないのである。
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