【チャクラの真実】~チャクラ開発の嘘や間違い






誤った「伝承」を伝えるのに罪はないが、それらは「厄」となり「業」となるものである。

ゆえに「罪」を生み出す「業」なのである。


さらに、様々な「解釈」で捻じ曲げれば、「業」はさらに深くなる。


法的な「罪」の類ではないが、確かにそれらは「業深い」ものなのである。




チャクラ


チャクラの伝承や教えにはそもそも「明確さ」が無い。

様々な言い伝えや解釈などを交えて、歪みに歪んだものが一般化しており、そもそも「何のために」という疑問にさえ答えが無い。


チャクラとはそもそも「何であるか?」

チャクラは「何のために」あるのか?


それさえ明確ではないから「有る・無い」という問題まで発生する。



何のためにあるのかわからなければ、何のために「開発」するのかも定かではなく、だから明確な「結果」を出すものが未だ無いのである。





チャクラとはいわば『幽体の臓器』である。

肉体と霊体の「狭間」であり「結び」である「幽体」を「活動」させる『臓器』なわけである。


それは肉体の「五臓五腑」と『対』を成す『幽体の五臓』であり、肉体と霊体を「結ぶ」ものであると同時に肉体と霊体に分割してエネルギーを渡す「分岐」でもある。

ゆえにチャクラは「叉蔵(サクラ)」であり、チャクラの花は「五葉」であり、花弁は「桜」そのものである。



チャクラは七つと言われているが、残りの二つは『別物』である。


尾骶(びてい)に一つ(第一と言われる)と頭頂に一つ(第七と言われる)

これは他の五つのチャクラとは『別物』で、尾骶にあるのは『地引きの岩戸』であり、頭頂にあるのは『天の岩戸』である。


『地引の岩戸』は人の力で開く必要がある。

それは「肉体側」の『門』であるためであり、肉体が発生させるエネルギーを通す『門』であるからだ。

更に、エネルギーを蓄積させるところが「丹田」であり、丹田と第一チャクラの関係は、いわば「ダム」のようなものである。

丹田に蓄えられたエネルギーを第一チャクラという『門』を開いて「肉体」のエネルギーを送り込む・・・ということである。


そして、多くの教えはここから順に頭頂へ向かってチャクラを開発していく・・・というものが多い。


それが間違いなのである。


肉体のエネルギーを「何処へ」流しているのか?

それではただ単に肉体エネルギーを肉体の頭部へ流しているに過ぎないのである。

その段階として第二、第三、第四・・・とただ単に「順番」にチャクラが「有ると言われる」『肉体部位』へと流そうと躍起になっているだけである。

それでは何も起こらないのは当然である。



チャクラは「幽体」の臓器であり、「霊体」のある方向へエネルギー

を送らなければならないのである。


では、「霊体のある方向」とは?

頭頂か?



エネルギーは肉体次元と霊体次元という『違う次元』を跨がなければならない。

だから「上の次元」へと送らなければならないのである。


では、霊体次元の、上の次元の「何処に?」というのが明確でなければ送れない。

だが、それを明確にする伝承も知恵も何もないわけである。





ヨガと仏教


ヨガと仏教という「本来一つ処」にあるものが別々に伝承されたために悲劇が起こっている。

その理由は「第七チャクラ」という『天の岩戸』を開く方法が、仏教が得意とする教えの中にあるからである。


第七チャクラは第一チャクラのようなやり方では開けない。

『天の岩戸』である。

それは『神の側』『霊の側』から「開いてもらう」ものなのである。

だが、それを「開いてもらう」ために「やらなければならない事」があるわけで、それが「仏教」の教えの中にあるということ。


それが『業(カルマ)の清算』である。


『業(カルマ)』のある状態というのは、いわば「借金」がある状態であり、この「借金」を返済してしまわなければ『岩戸』は開かない。

なぜなら『業(カルマ)』という借金がある状態は『穢れ』がある状態だからであり、その『穢れ』とは『厄』である。

『厄』がある状態の者の『岩戸』を開けば、霊界、神界に『厄』が流入する。

それは、『岩戸』を開いた者の「霊体」が『厄』によって歪み穢れることになるからで、霊体が歪み穢れれば霊界に「災厄」を招くからである。

だから『業』が清算されないうちはけっして『天の岩戸』は開かない。


だから、『業』を清算するために「捨てる」という『厄祓い』が必要となる。

「役」によって蓄積した『業』という「厄」を祓い、「終わった役目」も捨ててしまわなければそれも「厄」となる。

「終わった役目」を手放すことで「新たな役目」が訪れるわけであり、その時、自身の『業』が「零(ゼロ)」となっていなければ『天の岩戸』はけっして開かない。


そして更に、岩戸を開くためには『神』へと真っすぐに向かって「呼びかけて」いなければ「応え」は返ってこない。

呼びかけることで神が「応えを返す」ために『岩戸』は開かれるのである。



この「呼びかけ」が「神へと真っすぐ」向いていなければ、別のものから「応え」が来る。

だがそれを「神」と勘違いし「結ぶ(繋ぐ)」ことをすれば、例えばそれが「悪霊」なら「契約」となる。

そうなると自身の肉体は「悪霊の器」となり、チャクラはけっして開くことはなくなる。

どうしてそうなるのか?

『業』が清算できていないからであり、だから「厄」を呼び込んでしまった・・・ということである。


「役目」のつもりで「厄目」を行っているものが多いのはそのためである。

「厄目」を行うとは「災厄」をバラまくこと。

「穢れ」をバラまくことである。





ダマした岩戸のアマテラス


天の岩戸の伝承は「ダマした岩戸のアマテラス」である。


何をダマしているのか?


それは、「岩戸」を開く方法であり、出現であり、決定的なのは最後に「岩戸を閉めた」からである。


『業』の積もった状態で「神」を呼び、しかも「意思」のハッキリしない「神」が現れており、その「神」を引っ張り出しており・・・・

何もかもが常軌を逸しているのである。



正しき伝承は「玉依姫」の「川」での「禊ぎ」による「火雷神の矢」の伝承である。

「禊ぎ」は「業の清算」で「身綺麗」にすることであり、「川」は『神と人を繋ぐ一本道』であり、「岩戸」が開く時は『落雷』の如き開き方であるのが現実である。

本当に頭頂に「雷が落ちた」ようになる。


「禊ぎ」をして「天の岩戸」をノックし『ここだ』と場所を教えると、そこに『雷(神成)』が落ちてくる。

それは人が「神と成る」ための『岩戸開き』であり、「地引の岩戸」が開いて肉体のエネルギーと霊界からのエネルギーが「交わる」ことで「双方向」の道が開け、第一チャクラと第七チャクラの「エネルギーの交通」が初めて可能となる。


そして、「天(霊)」からのエネルギーと「地(身)」からのエネルギーが交流することで、その次元の道筋に存在する『五つのチャクラ』が開花する。


第二チャクラは「身」に近く、第六チャクラは「霊」に近い。

第三チャクラはやや「身」に近く、第五チャクラはやや「霊」に近い・・・という具合に『身から霊の次元』へと通っている。

そして、五つのチャクラ開花することで、自身の「幽体」は成長を始めるのである。





チャクラの開花


チャクラが開花すると明確にわかる。

まさに『花が回る』のである。

そして、その花弁は『五葉』であり、桜の花びらのような形をしている。


その花びらの回転に付随して、色を変化させる。

赤からオレンジ、黄色、緑、青、紺、紫(マゼンダ)そして再び赤・・・・

それらの色彩が「白い花びら」に変転しながら現れる。

ちょうど「第三の眼の前」に・・・グルグルと回っているのが観える。


視点(意識)を外せば気にならず、視点を戻せば回っている虹彩の桜が現れる。



そしてその次に起こるのが「神の分け御魂」が自身の「幽体」と重なり、時間の経過とともに「和合(融合)」する。

意識にも思考にも「分け御魂」のものが混じり合い、はじめは違和感があるがやがては慣れて「和合」する。


そしてやがて「霊体」として「霊界」での活動が可能となる。

その「霊体」は「神の分け御魂」の姿であったり、自身の「霊体」の姿であったり・・・・

それらは『役目』に応じて人それぞれ違うものである。


私の場合、そこに「龍体」も加わる。

「龍体」は「次元を超える」ための「変体」であり、単に「幽界」「五次元霊界」へ移行するだけであれば「龍体」は必要なく、さらに上の次元へと移動する際に「龍体」が必要となる。


高次へ行った「龍体」は直系の「神体」と重なり、意識と視点を共有する。


「霊体」と「肉体」の『和合』から、役目に応じて『神体』との和合となる。



これが『岩戸開き』というものの先にあるものであり、『霊身一致』をチャクラの発動により成し遂げたことで、今度は「神の手」としての『器』となり『神人一致』をして「神の役目」を行うこととなるのである。


だからこそ『業の清算』は必須であり、「役」は「厄」となる前に終えて「祓う」ものなのである。

そのために『手放し』が必要であり、「役」が歪んで「厄」とならないよう『掃除洗濯』を常に心がけ『禊ぎ(身削ぎ)』を続ける必要があるのである。


いくら「岩戸」が開いても、自身に「業」が湧き、「穢れ」が湧けば「天の岩戸」はすぐに閉じられる。

「禊ぎ」をして身綺麗にしなければ「開く」ことは出来ない。





癒奏術


「岩戸」が閉じた状態では「癒奏術」は成立しない。

ゆえに常に「禊ぎ祓い」しておかなければならない。

だが、自身で気付かない「穢れ」というものは積もってしまうものである。

そんな時は「何がしか」が起きて「禊ぎ祓い」するような出来事が起こる。


「神界」へ赴く「役目」があるなら「禊ぎ祓い」は必須であり、「業」を作ることはご法度である。

だから「役目」があるなら必ず「塵ほど」でも穢れが残っていれば「出来事」によって掃除される。


一度開いたからOKなどということはけっしてない。

穢れが広がり清浄化せねば岩戸は閉じられたままとなる。


そういう状態であるからこそ、「神と繋がる」人は『一目でわかる』のである。

繋がった「つもり」になり「悪霊」と繋がっているものは、「幽界」を徘徊しながら「神」の言葉を降ろしている・・・・とする。

言葉を聞けば清浄ならず、身を見れば清浄ならぬことはすぐにわかる。



「神の言葉」は清浄である。

だから余計な言葉が無い。

言葉よりも言霊の「意」が重要であり、それを人が解釈できるように言語化するのが「みこと」である。



神の言葉を降ろす「巫女」は、「業」無く清浄でなければならず、「業」を抱えたまま、「役」が「厄」となっている時、それは「神の御言」ではなく「悪霊の御言」なのである。






『業』が無く、『厄』が無く、清浄なりて初めて神界と交通、通信が可能となる。

穢れがあれば『幽界』止まりとなり、それ以上の次元へは交通、通信できなくなる。

「天の岩戸」が閉じられるからである。



現在の伝承に於いてチャクラを開発しても、せいぜい『幽界』へと接続するのがやっとだろう。

それでもほとんどの者はそれすら不可能である。

逆に「幽界」に干渉されやすくなり、それに「気付く」ことも出来ず、「闇(病み)」の方へと向かってしまう。


仏教の修行に於いて「病む」というのは、肉体の「気」ばかりが頭に上り、それによって「病み」が発生する。

その独特の「病み」を鎮めるために『白隠禅師』が【夜船閑話】の中での瞑想法による治療を記している。

ヨガでは「グラウンディング」と呼ばれるものである。

要は「上った気を鎮める」のである。


チャクラを開発しようとして頭頂部へ気を押し上げるばかりでは「病み(闇)」となるのは当然のこと。

仏教において「思考」ばかりで「悟り」を開こうとすれば「病み(闇)」となるのは当然のこと。



「悟り」は『岩戸』を開いた先にある。

ブッダが到達した上位次元は精神体(霊体)と肉体の融合をもって神界への道を開き、解脱によって禊ぎされた「業」が浄化されていて初めてたどり着ける次元である。


ブッダが数年かかった「業の解脱」を、修行もしない一般人であれば三十年と言われる。

三十年、浮世で借銭をチャラに出来たならいいが、逆に増やしゆく人の方が多い。


「得」ばかり追いかけること尊ばれる現代では、さらに少ないであろう。

自身の「役」の「責」を誰かに押し付けて、または自分に合わない「役」にハマって「厄」となっている人の方が多いのである。

せっかく事故や大病を患って「業」の「一括返済」をしてもらっても、再び「終わった役」に執着して「厄」となった「役」を手放さなければ無駄となる。

それでは『厄病神』となってしまうばかりである。






最初のような問いに戻ろう。


何のためにチャクラを開発する?

その意思は清浄であるか?

清浄さを装った嘘ではないか?



本気で神に手を届かせたいなら、本気でチャクラを開きたいなら、「誠の道」を進むべし。

賽の河原でおのれの「才」を積んで

才の河原で禊ぎ祓いして清浄になり

地引の岩戸を開いて

神に問いかけ

火雷神(避雷針)を迎え

分け御魂を授かることである

その分け御魂は

神へと結ぶ「ミコト」である





ひふみ神示 地(クニ)つ巻 第八帖

祓ひせよと申してあることは何もかも借銭なしにする事ぞ。借銭なしとはめぐりなくすることぞ、昔からの借銭は誰にもあるのざぞ、それはらってしまふまでは誰によらず苦しむのぞ、人ばかりでないぞ、家ばかりでないぞ、国には国の借銭あるぞ。世界中借銭なし、何しても大望(たいもう)であるぞ。今度の世界中の戦は世界の借銭なしぞ、世界の大祓ひぞ、神主お祓ひの祝詞(のりと)あげても何にもならんぞ、お祓ひ祝詞は宣(の)るのぞ、今の神主 宣(の)ってないぞ、口先ばかりぞ、祝詞も抜けてゐるぞ。あなはち、しきまきや、くにつ罪、みな抜けて読んでゐるではないか、臣民の心にはきたなく映るであろうが、それは心の鏡くもってゐるからぞ。悪や学にだまされて肝心の祝詞まで骨抜きにしてゐるでないか、これでは世界はきよまらんぞ。祝詞はよむものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うてゐるが、それ丈では何にもならんぞ。宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、神のことは神主に、仏は坊主にと申してゐること根本の大間違ひぞ。



月光の巻 第四十四帖

この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられてゐるのぢゃ。借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。此処の道理もわきまへず理屈申してゐるが、そんな人民の機嫌とりする暇はなくなったから、早う神心になって下されよ。そなたは祈りが足らんぞ。祈りと申すのは心でゐのり願ふことでないそ。実行せねばならん。地上人は物としての行動をしなければならんぞ。口と心と行と三つ揃はねばと申してあること、忘れたか。




癒奏術・響庵

心と身体と魂を癒す・・・それが「癒奏術」 肉体から霊体へ、霊体から神体へと手が届く唯一の施術です

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