伊勢の御蔭に隠り坐す神 《淺田友神帳》
五十鈴川 巡り結ばる 御蔭神 ー
もう4年ちかく前になるか・・・・
伊勢神宮へ赴いた際、【伊勢の女神】にご案内をしていただいた。
だがそれは同時に「導き」でもある。
伊勢神宮門前の「おかげ横丁(おはらい町通り)」に足を踏み入れ、少し歩いたところで意識が「現界」と「霊界」の視界が同時に現れた。
現実の自分は確かに「おかげ横丁」を歩いている。
だが、「霊界」の自分はきらびやかな『牛車』に乗って、神宮へ続く道を少し見下ろすように眺めている。
そして、自分の右隣りで同じく座って前方を見ている女神・・・・
「誰だろう?」
そう思った瞬間
『市杵島姫命』
と答えが返ってきた。
すると次に、「岩戸」の前で佇む同女神の姿が・・・
「そうか。岩戸から出されて岩戸を閉められたのは市杵島姫命であったか・・・」
爾来、女神は『天照大御神』の【お役】を果たし続けている。
現界を歩いている自分の姿は自分である。
しかし、牛車に乗っている自分は瀬織津姫の姿であり、それは「牛車に乗った瞬間」からそうであり、いわば「その視野を共有している」ということになる。
だから二重にも三重にも「不思議な感覚」である。
「しかし何故おかげ横丁にまで出張って来たのだろう?」
思った瞬間
『流れを恙(つつが)なく・・・』
「流れ?」
そう思い前方を見ると
「あぁ、人の流れか。」
そういえば多くの人が確かに〈恙なく〉流れている。
「え?そんなことをしているのか?」
『淀めば穢れます』
「確かに!」
思い通りに進めなくなった人は、苛立ちと共に様々な「灰汁」を心に湧かせ出すだろう。
「だから恙なく流れるように・・・」
なんとも素晴らしく、感謝の限りである。
そして、二重の「視野」が重なったまま神宮内に入りしばらく進んだところで
『あちらに』
指し示されたのは【風日祈宮】
そちらへ行けということか。
人波の流れから外れて別宮の【風日祈宮】へ向かい、参拝して再び人の流れに戻る。
流れは「本殿(正宮)」へと向かって流れている。
そして本殿前に到着したところで
「ところで、あなたがここに居るのに本殿(正宮)に参拝するのか?」
そういうと女神は少し微笑んで
『せっかくですから』
お参りしてけ・・・・ということか。
二重視野の中で『牛車』から降りて本殿で参拝し、その足で【荒祭宮】にも参拝し、【牛車】に戻って車内を見ると【二人の女神】が確かに居る。
そして、牛車の前で肝心の【女神様】に頭を下げて感謝を述べた。
再び視野は牛車から見下ろすものと、徒歩で歩いているものとが重なる。
そのまま人の流れに乗るかたちで進んでゆく。
再び神宮を出て「おかげ横丁」に入り、左右のお店を眺めながら少し買い物を済ませた。
買い物の間も牛車は待ってくれている。
「なんか慣れてきたな」
この不思議な状況にもだんだん慣れてきた。
そして再びおかげ横丁を進んでいき、ちょうど右手に「神宮道場」の建物があるところで
『ここまでです』
【女神】の言葉に
「ありがとう」
と感謝を伝え、牛車を降りて女神に一礼する。
牛車は再び【神宮】のほうへゆっくりと進んでゆく。
それを見送って自分もその場を離れた。
ーーーーーーー
劔の三女神はそれぞれ
劔の本質(在り方)である「斬る」という要素と
本質を現わした「劔の型」と
劔を「使う」ための「結び」という「三つ」があって初めて【劔】となる。
そして、三女神は【十拳劔】の上記「三つ」が神となったものである。
【十拳劔】の「斬る」は『転化』の一閃であり
『十拳』は「十(結び)」と「拳(握り)」であり、つまりは「転化を結ぶ」劔である。
市杵島姫命は「使う者と劔を結ぶ柄(握り)」を司る。
つまり、伊勢の女神は「転化の劔と人を結ぶ」女神様である。
だが・・・
然るにそれは逆である。
『神が握る劔となるのが人』
つまりは『劔』となる=『お役目』なのである。
そのために人は鋼を打ち劔を鍛える如く自らを鍛え磨き「劔」となれるように・・・・
この時の【市杵島姫命】の導きがそれであり、そのために【癒奏術・厳瑞劔】を行ってきたわけである。
だが人は自らが神を握って振り回すほうを選ぶ。
天地逆さまの天狗の世である。
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