神様が与えてくれるもの 《神人和合の詩》




神様が人に与えてくれるのは、ほんの小さな「機会(チャンス)」である。

それは「徳を積む」機会であり、「厄を祓う」機会であり・・・

そんな「機会」が訪れる「偶然」の「巡り」を与えてくれる。


そんな時、自分が如何に行動するのか?


その一瞬で「徳」の質が決まり、祓える「厄」の量が決まる。



一瞬一瞬、毎年、毎月、毎週、毎日・・・

無心であり、赤心であるからこそ、その瞬間に身・口・意を一致させ、「作麼生、切羽(そもさん、せっぱ)」の間断なく行動できてこその「徳」である。


振り返って思い返して、その時「邪念」が入らなかったか?

偶然の巡りから行動に至るまで、どれほど迷いが入ったか?

自分が採った行動を、あとから悔やんではいまいか?




神の「試し」も「導き」も、無心、赤心なるかを見ている。

清く済んだ真澄の心に、間断無きゆえ魔が入る隙はない。

しかし、迷い躊躇し考えあぐね、そうしている間に「魔」が入る。

「魔」に付け入られる心には、流れる如く動けぬ執着がある。

執着は心の曇りであり、曇りあるから蔭があり、魔を引き寄せる闇となる。



邪なる思いが湧くのは、執着の蔭に潜んだ魔言

徳積む神の導きを、邪魔する悪魔の戯言


大切な時にそんな魔言の入る隙の無い、無心、赤心、身・口・意の一致。

それが「神」がもたらした「試し」か「導き」かなど考える『間』の無い心。

その心こそ『真澄の心』



一つひとつ積むごとに、カルマの厄は消えてゆく。

祓うもの無くば積み上げられて、天の高みへ昇りゆく。

カルマの借銭、厄の借銭、消えてからが惟神(かんながら)の道。

カルマを抱え、執着抱え、神人一致は適わぬぞ。






無心、赤心、真澄の心 磨けたものから惟神

生まれた時の「真澄の心」 塵が積もりて曇り汚れて

蔭が魔を生み闇(病み)となる 巡り淀んだ情の川

底に沈んだ喜怒哀楽の 情に囚われ悪が湧く


「役」も「福」も淀めば「厄」に 役福祓いて厄祓い

節分 豆まき 厄祓い 福は外にて鬼は内

真澄の魂の神人一致 福を与える鬼(神)となる




真澄の鏡の地獄門 閻魔の裁きの地獄門

最後の肚括りの「白山道」 百引く一の肚「九九理道」

肚括りの白山道は 菊理姫のご案内

伊邪那岐命に告げられた 地引の岩戸のX(締め)くくり




地引の岩戸が開く時 逆さま天地が混じり合う

伊弉諾神の霊の陽と 伊弉冉神の身の陰と

陽にとっては陰は悪 陰にとっては陽は悪

日向(ひむか)大神と黄泉(よもつ)大神

巡り合いたる陰と陽 逆さま天地が混じり合う



地引の岩戸 黄泉戸大神 百引く一の白山の岩

天地を分かつ黄泉戸の岩 恵みを咲かす菊の花 

九十九神(つくもがみ)なる現(うつし)世の理

日向と黄泉の九(子)と九(子)を十(結)ぶ理

死するゆえに生まれる理 生まれるゆえに死にゆく理

死して生まれてまた死する輪廻 産屋で産まれる九十九の理

肚を括りて命を括り 死して輪廻を括る道

白山道(黄泉平坂)の菊理(くくり)姫 地引の岩戸 黄泉戸大神




輪廻のカルマは黄泉戸の内外 日向と黄泉の分水嶺

徳を積むのか 悪を積むのか カルマに積んだ石の数

黄泉が交じりた今今の時 カルマが湧き出し九十九神

おのれの神が日向か黄泉か 現れたるが今今の時



隠したる 心の闇(病み)が 表に現れ 真澄の鏡に映りたる

開いた黄泉戸の地獄門 肚を括りて通りゃんせ






癒奏術・響庵

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