精神疾患とヒーリングヘッド
「精神疾患」というものを単なる「精神」や「心」や「脳」の疾患という捉え方は、単純で『わかりやすい』のであるが、その『わかりやすさ』というものは様々な要素を「排除」しただけのものであり、複雑な「人体構造」や「生命活動」という【巡り】から切り離し「単純化」したということであり、だから『わかりやすい』というだけであって、その『わかりやすさ』は『理解』からは程遠いもので、『わからない』ものを『無い』ことにした『わかりやすさ』というものである。
かつて心理学の先人である『ユング』は「パーソナリティ理論」を発表した際に
「現在の人々が理解できるのはここまでである。」
として当時の人が「理解し得る範囲」だけの発表にとどめたものが上記の理論である。
彼がまとめた心理学というものは、いわば『ブッダ』の言葉・・・いわゆる「仏教的」「バラモン的」な知識を得て、それを「西洋人の理解」がしやすい形式と、理解が可能な範囲を『西洋的理解の体系化』へと変換したものである。
かれはまだまだ発表したいことがあっただろうが、それが「受け入れられない」ことを知っていた。
「受け入れられない」というのは「理解されない」ということであり、それこそ『わかりにくい』ということそのものである。
「龍」という細長い蛇のような存在が「空を駆ける」ということを西洋人は「受け入れられず」「理解できない」わけであり、だから「龍」の胴体を縮めて『翼』を設けて「ドラゴン」とすることでよやく西洋人の『理解』が届くところまで『変質』させたのである。
それがユングの「心理学」というもの。
西洋人ならいざ知らず、私は東洋人であり仏教が根付いた国に生きている。
どうしてわざわざ『翼』を求める必要があろうか?
精神疾患に「身体」が影響していることがようやく理解され出し、頭部の血流や電流(気流)が影響していることを治療の現場レベルにまで届き始めた昨今である。
だがそれは「西洋人思考」の「理解順序」の問題であり、日本人がそれに従うというのは非常に滑稽なのである。
それはたぶん日本人の思考機序が西洋人の「それ」のようになっているということなのだろう。
仏教的な思想が日常の生活の中に息づいているにもかかわらず、それを理解するのにわざわざ他人の指摘を求めているという「承認欲求」に似た精神状態なのだろうと思う。
前置きはこれくらいにして本題に入ろう。
精神疾患と言われる人は概ね「頭部」の凝りが酷く、頸部や胸部も同様にひどく凝っていたりする。
当人も自覚しているが、自分ではどうしようもない状態である。
精神治療の現場では最近になり「磁力」をもって頭部、脳内の「血流」を改善するという治療法も行われているようであるが、それを聞いて「ピップエレキバンそのものだな」と思った。
頭のいいと言われる人たちは時に「視野狭窄」によって頭の悪いことをするものである。
そして辿り着いたのが「ピップエレキバン」のような「治療」である。
じゃあ「ピップエレキバン」を肩に貼る行為は「治療」と言っていいだろう。
皮肉はこれくらいにして・・・・
精神疾患の人の多くは頭部、頸部、胸部などが非常に凝っており、それが元で血流は悪く気の流れも停滞しており、特に女性は頭部に「気滞」が生じやすい。
恐らくそれは「化粧をして顔を作る」ところから始まるのだろう。
顔の筋肉を動かしているのは顔の部分だけでなく、頭部、耳、首、胸部、手など様々な部位が顔に影響を与える。
頭のいい人たちは「頭部」に集中しているが、私はそれらの各部位が影響していることを知っている。
だから頭だけでいいわけがないことも知っている。
その視野の違いが生まれるのは、「わかりやすさ」を追い求めなければならない「西洋的思考」の機序のためであり、「わかりにくさ」の中から『掴む』ということを日常化しているはずの「日本人的思考」ではないということだ。
ヒーリングヘッドによる緩和と治癒
結論から言うと、今まで施術したのは数人ではあるが「双極性障害」や「対人恐怖症」などの人が施術によって薬も必要なくなり、日常を取り戻していった。
時間をかけて悪くなったものは、ある程度時間をかけて良くなっていくものである。
そして、その「良くなる」ためには周辺の人たちの関係性も良くならなければならない。
病気と診断され、その後、自分の身近な人々に心無い言葉を投げ続けられて、さらに悪化していった「過程」をも転換させなければ「治癒」に向かうことはないのである。
そして、その最大の障害となるのが「医師」だったりするわけである。
だから「そこの障害」も越えられるように心配りが必要となる。
ヒーリングヘッドという施術は、そんなところから生まれている施術であるため、身体的な頭部のみならず「精神的」「心」「人との関係性」というところまで施術することとなる。
でなければ、穴の開いた船の「穴をそのまま」にして水を掻き出しているようなものだからである。
ちゃんと「穴」を塞がなければならないということだ。
施術に関して
そういう人の施術を行うと、必ず頭部に滞留している電流の如き「気滞」が手に伝わる。
それを吸い上げて腕を通し、足下へと「アーシング」するように流す。
そのために施術時に「アーシングマット」を敷いている。
それがなければ行き場を失い、自分の身体に残ってしまうからである。
そして、その「気滞」は「薬」を飲んでいるほどに多い。
まるで「薬の成分」が流れてきているのでは?・・・と思えるほどである。
頭部の凝りは尋常ではなく、まるで筋肉でギュウギュウと締め付けているかのようである。
酷い人は「筋」が網目のようになっていることもあるほどだ。
その締め付けが頭蓋骨を歪ませ、そうなると当然脳内の血流、気流も歪み滞る。
頭部に気血が上がりやすく、そして滞るからパンク寸前となる。
思考も停滞するが、気血が上がるためエンジンはフカされて、結果、思考が同じ場所をグルグルと回っているというような印象である。
そして、上がった気血が「降りてこない」ために、肚に力が入らず腰も落ち着かず・・・・という状況を生み出す。
手足は冷え、よって内臓も冷える。
当然呼吸も浅くなり、気の巡りを止める作用が生まれる。
それゆえに心は「悲しみ」や「恐れ」に滞留してしまうこととなる。
身近な人たち、周辺の目などによって「自分が悪い」ということを刷り込まれてしまっているから「怒り」の向けどころは無く、「怒り」を発すればそれは「自分」へと向かい更に自分を傷つけることとなる。
心の、感情の「抜け道」が無い状態なのである。
だから最初にやらなければならないのは「抜け道」を作ることであり、それが「船の穴を塞ぐ」ということ。
そして、凝りを、滞留をただ「ほぐせば」いいだけではない。
呼吸を取り戻して「巡り」を取り戻さねばならず、食欲を取り戻し「滋養」を取り戻さなければならず、それらも整ってようやく「巡り」は正常な流れへと回帰する。
呼吸を取り戻すために「アロマ」を使ったり、滋養を取り戻すために漢方や薬膳を使ったり、だがそれらは「言葉」によって修復される「流れ」が出来てからの話である。
施術という「手段」はあくまで「手段」の一つである。
それ以上に大切なのは、「森」の状態を見極めることである。
枯れた木にばかり気を取られ、森全体を見渡さなければ、「枯れる」という状況に至った理由はわからない。
「枯れた」に囚われれば「枯れる」がわからなくなるということだ。
「わかりにくい」中から「掴む」ことで「左脳」ではなく「右脳」で「わかる」という状態・・・
それが日本人が最も誇るべき才能である。
だが西洋的になった昨今、「左脳」の中でばかり組み立てようとしている。
だから「わかる」の次元が低いままなのである。
だから「龍」は本来の姿を失い「ドラゴン」となるように「本来の姿」を捉えられず、「羽根の生えたドラゴン」へと寄っていくこととなるわけである。
だからユングは「これぐらいしか理解できないだろう」と落胆しながら心理学の理論を発表していたことだろう。
ブッダの残した奥深い言葉や理論の、ごくごく浅い部分しか伝えることが出来なかったわけであり、少しでも深い部分に触れると「オカルト」とされ排除されるわけである。
だから彼らは『神』に辿り着けず、『経典』に留まり続けるのである。
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