終わり行くもの 始まりくるもの
ヒーリングヘッドの伝授をした人たちに必ず言ってきたことがある。
『教えた原型から外れなさい』
「型」というのは「本質」を習熟するための基礎練習の「骨組み」でしかないもの。
だから、そこから自分という「個性」という肉をつけていかなければ、『自分のもの』とはならない。
『自分のもの』とならなければ、「型」の奥にある「本質」を引き出すことも出来ない。
服も靴も、毎日の食事も、睡眠も、あらゆるものが「他人」とは違う。
だから自分に「合った」色やサイズや形の服を着て、靴を履いて、食事をして、睡眠をして、全ての人が「自分」という個性の『生き方』をしている。
それらと全く同じことであり、「技術」というものも「自分の生き方(型)」に合わせなければ、その「技術」は『使われること』が無くなり、その「技術」の『本質』そのものが『使われない』ということになる。
サイズの合わない服も着ず、靴も履かないのと同じであり、自分に合わない食事を毎日摂ることもないのと同じことである。
「型」の奥にある『本質』を掴めば、自ずと「型」は変わる。
本質さえ掴めたのなら『型の原型』が跡形もなく崩れ去っても構わないのである。
今までの時代というのは『型の模倣』が尊ばれた時代である。
それは「効率よく大量に生産し行く」ことが十飛ばれた時代だったからである。
そして、それが生み出したのが「テンプレート」という『型』を模倣する人々・・・
テンプレの『型』に沿うことが「正しいこと」であり「尊いこと」であった大量生産、消費時代の申し子たち。
だが、それが終わる・・・・・・
テンプレは「AI」で十分であり、それが「AI」の利用価値なのである。
そして「AI」は『模倣』を無制限にこなせるわけである。
だから「人」はもう「模倣」というテンプレを追いかける必要はなく、追いかけたところで「AI」には勝てないのである。
しかし乍ら、人の方はその流れに完全に取り残されてしまっている。
「教育」というテンプレの『型の中』で刷り込まれたものを、未だ変えられないままでいる。
「教育」そのものが未だ変われていないのだから・・・・
だから人は未だ必死になって「テンプレの型」を求め、「型」に安住しようとしているわけであり、だが、それが『壊れ行く』さまを目の当たりにしても、必死で目を背け耳を塞いで言わないようにしている。
そうすれば「このままやり過ごせる」と思っているのだろう。
だが、世界は確実に音を立てて古いものが壊れている。
必死に繋ぎとめようとしても無駄である。
見なければ、聞かなければ、言わなければ「逃げ切れる」などということは起きない。
テンプレというのは恐ろしいもので、多くの人は「SNS」というテンプレによって思考を制限されていることに気付かない。
「SNS」を使えば使うほど思考の「メモリー」は委縮して小さくなる。
世界が広がるどころか「縮小」するのである。
ほんの「数行」の世界観で出来上がった世界であり、ほんの数分で語れる世界であり、その「少ない」メモリー領域で交わされる世界の「広さ」以上の認識が出来なくなっていることに気付かない。
長い文章を読んだところで、頭に残るのはほんの数行であり、云わば「木を見て森を見ず」という状態がひどく進行する。
そして「木を見ず枝葉のみを見る」というところまで思考のメモリーは委縮する。
また、テンプレに慣れ過ぎた思考は「手段」のみを求めだす。
「手段」とは単なる「型」であり、だから「手段」の奥にも『本質』があるが、その『本質』などはどうでもよく、その「手段」を用いることで「何が約束されるか」という今までの『教育』の弊害が現れる。
テンプレートを模倣することで何がしかを「約束」してきた時代であったから。
それが現代の『教育』というものの根幹である。
それは「大量生産」という経済活動を維持するためのひとつの「テンプレート」であり、それを人々に求め、だから人々にそのように「教育」が為されてきたわけである。
だが、基礎となる「テンプレート」自体の『変化』が早く、とうてい人では追いつけない速度で変化をしているのである。
それは『模索』しているということでもある。
だが『模索』してはいるが、その先に「人」が安寧するような居場所はない。
「AI」で十分なのである。
『型』を追いかけて「模倣」を良きこととしてきた人は『本質』を掴むことが苦手である。
どうしても「型」に目が行き、「型」をイジることしかできない。
そして「型」を少しイジって「個性」であるとか「独自」であるとか思い満足する。
だが、『本質』を掴んでいないから自分から「新たな型」は生まれない。
そしてまた「新たな型」を求めて彷徨い、模倣した『型』を少し「縫い直し」して着る服のように・・・ということが繰り返される。
まるで不安を解消し合うかのように、教えながら教えてもらう・・・・を繰り返して、「安心」を相互的に補完し合う。
かつての「ネットワークビジネス」がそうであり、今の「スピリチュアル」がそうであり、それは一般社会における「学校」に通いながらも「不安」が拭い去れず、別の「学校」でも「型の模倣」を増やして「安心」を得ようとしているのと全く同じこと。
「優秀な模倣生」こそ『優等生』という『終わった型』の中に未だにいるからである。
少し前から「本」を書き始めている。
以前に出した『華厳の道』という本の続編となるものである。
この4年間で自分の身に起こった事実を精査し、その意味や意義、そして理論を突き詰めて来たものを書いている。
これを書きながら「恐らく多くの人はこの本の中の【手段】のところだけを切り取るだろう」と考えながら書いている。
そして、「手段だけを切り取る」というようなことをさせないために、何を補完して書けばいいかということも考えながら書いている。
「手段だけ」切り取ってもけっしてモノにはならないからである。
それは、古くからの「古典」というものの「手段」だけを切り取っても、未だ「実績」が出ていないことを見ればわかること。
「手段」だけを切り取って『本質』を蔑ろにしているから「実績」は出ず、せっかく先人が残してくれた宝を持ち腐らせてしまっている。
「手段」は大切である。
「型の模倣」も大切である。
だがそれは「地図を手にした」ということに過ぎず、道を歩けば地図では表せない様々なものに行き当たる。
そして、道を歩いて初めて「地図」に記されたものの様々な「意味」がわかる。
多くの人は「地図を手にした」ということで終わってしまう。
それが「模倣」であり「優等生」であるとされてきた今までの時代の在り方であるから。
だがそれは、手にした「地図」を見て他者に道案内をしているようなもの。
そして、そういう人が溢れている。
「地図」を手にして「案内(ナビ)」するなら、それこそ『AI』で十分なのである。
そして、そういうナビは「よく間違える」ということを知ることだ。
地図やナビで今やどこにでも行ける時代である。
だがそれは「行ける」というだけである。
「どこに行くべきか」ということはわからない。
「なぜ行くべきか」ということもわからない。
「いつ行くべきか」ということもわからない。
「どこに行くべきか」「なぜ行くべきか」「いつ行くべきか」
そういうことさえ『型』を「模倣」するしか術がないのではないか?
そして、実際そうしていることだろう。
『型の模倣』というのは云わば「外国のやり方」である。
それは「言葉」から起こる「限界」とも言える。
外国の宗教には『経典』が必須である。
『経典』という「型」がなければ立っていられないほど脆弱な「信仰」なのである。
『本質』である【神】そのものを信ずることが出来ない。
だが『経典』によって【神】という存在を「補完」している。
だから実際は【神】を信仰しているのではなく【経典】を信仰しているということになる。
だが『神道』は違う。
『経典』というものはなく、日常の中に「信仰」を溶け込ませて、「行う」ことが自然となるようにされている。
だが昨今、『神道』までもが『型の模倣』へと傾いている。
当然である。
外国産の「スピリチュアル」が『神道』の「見方」を歪めているからだ。
つまり、外国の宗教のように「型」から「信仰」へと「向かう」という「方向性の見方」へと歪んでいるということである。
『神道』とは本来「本質」を日常に溶け込ませて「行い」の中に存在するものである。
だがその「本質」を見失い、だから「型」から「本質」を知ろうという・・・・
自分の中に、日常の中に息づいているものを、どうして「型」を頼りにするのか?
そして、「型の模倣」をすることで『覚醒した』などとなるわけである。
「言葉の模倣」をするだけで『覚醒』などとなるわけである。
『型』は【神】ではない。
それは「天使の羽根」であり「ドラゴンの翼」であり、時に神にも付随される「翼」でしかないもの。
翼がなければ「宙に浮く」ということが信じ切れない者の「寄す処(ヨスガ)」である。
この「寄す処(ヨスガ)」にもたれて生きるということをしてきたこの三千年の時代。
「型」を尊び「手段」を尊び・・・・
だから「本質」が歪んでいても構わない時代であった。
だから「本質」が歪んでいても「型」が整っている者が尊ばれ、そういうものが君臨してきたわけである。
それは【本質である神】が「隠れる」ことを余儀なくされ、だがそれでも【本質】は変わらない。
つまりは【本質】に替われる【神】が不在であったということであり、【本質】たる『軸』が無いから『型』をもって支えなければならない時代であったわけである。
例えていうなら「柱」で立てる建築と、「壁」で立てる建築の違いである。
だが、【本質である神】が戻ったということは「柱」であり「軸」である【本質】が『在る』という世界が現出するということだ。
【本質】が「軸」となり「柱」となる世界には、それが『無ければならない』世界へと変わるということ。
そして現に「それ」が現れている。
いくら『型』だけ美麗に取り繕っていても、本質であるところが「醜悪」であるなら、その「醜悪」が『現出』するということ。
現にそのようになっているだろう。
それでもまだ自身の中の「醜悪」さを隠して「型」ばかり整えようとしている人々が大勢である。
「本質」の「軸」の無さを隠して「型」ばかり頑強にしたところで『軸が無いもの、本質が薄っぺらいものは崩れ行く』しかないのである。
それでもまだ『型の模倣』を繰り返す人々
SNSで思考のメモリーが小さくなった人々
「イイネ」ひとつで感情を振り回される人々
「型」を模倣するあまり、小さな「型」へと追い込まれているのである。
思考のメモリーの「容量分」の小さな世界へと「移行」する人々・・・・
次元上昇すると言い、小さな容量へと「感情」に突き動かされ「移行」する人々・・・・
逆立ちした「次元上昇」は「下降」しているのであるよ。
『型』を「寄す処(ヨスガ)」にして寄る姿は「蔦草」の如きもの。
『本質』という「根」の無い根無し草。
【神】が明らかに交代した世界で、生き方そのものを変えなければ・・・・・・
ひふみ神示 五十黙示録 五葉之巻
第九帖
平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地をよくみよ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな、一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。人民は選挙と申すマヤクに酔ってゐるぞ、選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。他に方法がないと定めてかかるから、悪魔に魅入られてゐるから判らんことになるぞ。世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ。
第十帖
悪自由、悪平等の神が最後の追込みにかかってゐるなれど、もう悪の世はすんで岩戸がひらけてゐるのざから、何とやらのように前から外れてアフンぢゃ、七重の花が八重に、八重が九重、十重にひらくのであるぞ、七重はキリストぢゃ、八重は仏教ぢゃ、今の神道ぢゃ、今までの教はつぶれると申してあろうがな。兎や角申さず掴(つか)める所から神をつかんでついて御座れよ、水は流れる所へ流れてゐるであろうがな、あの姿。
第十一帖
善では立ちて行かん、悪でも行かん、善悪でも行かん、悪善でも行かん。岩戸と申しても天の岩戸もあるぞ、今迄は平面の土俵の上での出来事であったが、今度は立体土俵の上ぢゃ、心をさっぱり洗濯して改心致せと申してあろう、悪い人のみ改心するのでない、善い人も改心せねば立体には入れん、此度の岩戸は立体に入る門ぞ。
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