デマが横行する『解釈の世界』~兵庫県・SNS・スピリチュアル
兵庫県の『デマ』を見ればよくわかる。
SNSというものの醜悪さ、そしてそれと全く同じ醜悪さの『スピリチュアル』というカルト・・・
『信じたいものを信じたいように信じる』
妄想の中に居座り続けるその醜悪さが「現実」を壊す「歪(ひずみ)」を生み出している。
自らの「妄想」を守るために現実を歪め続け、自分の妄想と同じ思考回路の人々が集まる。
自分を尊べず、だから他者を尊べない。
自分の「妄想」という陣地を尊び、意見の違うものを尊べない。
自分が尊んでいたものが否定されることを恐れるのは、自分の居場所を失うという恐れ・・・・
その恐れが「固執」を生み、壁を築きより高くするから「調和」を失い、さらに現実から離れて行く。
現実から離れれば離れるほどに恐れは薄れ心が落ち着くのは、「現実」から逃げ出しているからであり、現実を突きつけられれば突き付けられるほど「執着心」は強くなる。
心の真ん中に「恐れ」があり、「飢え」があり・・・・
「満たされぬ」という「欠落感」が引き起こす「歪(ひずみ)」
その「歪(ひずみ)」こそが「塀」であり「壁」であり、現実から自身を遠ざける「防壁」となっている。
どんなに現実が歪もうとも、その防壁を守ることこそ「正義」となる。
現実世界で誰もあなたを襲うことも奪うこともない。
だが「襲われる」「奪われる」という『妄想』が湧く。
それは「恐れ」を心の真ん中に抱いているからであり、「欠落」を真ん中に抱いているからである。
自分の不幸は「奪われているから」「与えられないから」という妄想・・・
「欠落心」という心に出来た「欠けた谷間」に湧くものを「慾」という。
「喜び」が「欠けている」という欲心は、「飢え」となり「渇き」となる。
そして「飢え」や「渇き」は『恐れ』へと向かう。
だが現実は「奪われて」いることなど無く、「与えられていない」などということも無く・・・・
現実で起こっているのは「歪(ひずみ)」の押し付け合いであり、その「歪(ひずみ)」を生み出しているのは自分でもあるのに、「歪(ひずみ)」をより色濃く明瞭にして少しでも自分を現実から妄想の中へ隔離して、その壁の内側に「一人でも多く取り込む」ことで安心を得る。
そういった「妄執」の材料を与えているのが「スピリチュアル」であり、「妄執の輪」を拡げるのがSNSであり、同じ「妄執」で仲間意識を持つことを「調和」と勘違いする人々・・・
ネットワークビジネスのようなものと親和性の高いSNSのシステムは、スピリチュアルにとっても親和性が高く、だがその親和性は「現実との乖離」を加速する。
それらは結局のところ「現実」を歪めた『解釈』を行うことで「歪(ひずみ)」を生み、塀を築き上げている。
都合のいい「解釈」で現実を歪めて「都合のいい妄執」を生み出し、そこへ逃避するというものであろう。
これらは「左脳偏重」の社会が生み出した「歪(ひずみ)」とも言える。
「左脳」ばかりを鍛え、「左脳」の向上を尊び、結果「右脳」を置き去りにしてきた代償である。
「右脳」の向上が目的であるはず「精神世界」を、「左脳偏重」が支配した「スピリチュアル」という世界は、「現実」を置き去りにして都合のいい「解釈」へと走る。
現実世界を「認知」するのは「右脳」であるのだが、「理屈」という「左脳」の組み立てをもって「現実認識」していると勘違いしているのである。
「理屈」はあくまでも「感覚」による『認知』の後に行う『論理立て』であり、「感覚認知」から程遠い「理屈」は『屁理屈』でしかないのである。
現実とは「視覚」であり「聴覚」であり「触覚」であり「嗅覚」であり「味覚」である。
この「五感」が『感ずる』ものが現実であり『認知』というもので、感じたものを「論理立て」するのが『認識』という「認知したものを識別する」行為である。
だが人は「左脳」で作られた「識別」に基づいて「認知」を歪める。
自分が「奪われている」「与えられない」などの「欠落している自分」という「識別」が先に在り、そこへ「感覚認知」を当てはめ込んでいるという「逆さま」な知識行動を行っている。
それを「妄執」と言っているのである。
心の真ん中に「飢餓」や「恐れ」を抱き、現実に起こる現象を「飢餓」や「恐れ」の感情を基に認知する。
だから現実認識が「歪む」わけである。
だが、結局のところ自分が「歪んでいる」ことはわかっている。
わかっているが「認めたくない」わけである。
自分では「認められない」が、誰かが認めてくれたなら・・・・・・
スピリチュアルが「商材」となる所以である。
現実離れしていればしているほど「安心」となるのは、現実から逃げている自分が「正当化」されるからであり、現実を「歪める」ことも堂々と正当化できる。
そしてそれが当たり前となれば、もはやそこから出たくなくなる。
同じ思いの仲間が寄りあい、さらに安心感は増す。
そうやって人は「カルト化」してゆく。
人を騙そうが傷つけようが殺そうが、それらは「正義」だと「解釈」され、『カルトゾンビ』と化してゆく。
そもそも「現実認識」が出来ていないのである。
現実認識が間違っており、だから現実を恐れ、現実を忌み、間違った「現実性」を取り繕う。
現実の自分を「偽りの自分」などと言い、妄想の自分を「本当の自分」などと言わねばならないことになる。
この数年間で何十回も言ってきたことであるが「現実は感覚で認知する」ものである。
そして「現実すら認知出来ない者が、五感の先にある精神性、霊性を認知できるわけがない」のである。
精神性も霊性も「現実」なのであるから。
「引き寄せの法則」という「現実逃避者の寄り合いの法則」で「妄執の壁」を作り、その「壁の内側への扉」というスピリチュアル商材で「逃避者」が集まり、その壁の中で「カルト」を享受しているだけの「解釈世界」に浸りすぎれば、現実世界に戻れなくなるのは当然である。
それはある種の「麻薬」のようなものであり、戦場にいる者が「モルヒネ」を使うのと同じことである。
だからSNSはカルトとカルトの毒し合いで溢れている。
そもそも「自分が与えない」という現実が引き起こす「飢餓」を理解し、「愛を与える」ことで自分の不満や欠如が「解消される」というものが「引き寄せ」の原点である「理(ことわり)」である。
にもかかわらず「受け取る」ことが先で「与える」ことは後回しにしていれば、「歪(ひずみ)」は永遠に解消されることなど無い。
自分が「欠乏」していると思い込んでいるのに、自分が「満たされている」などと思えることはなく、「与える」ことなど決して出来ない。
そもそも「与える」が何なのかさえわかっていないだろう。
自分を欠乏させているのは自分自身に外ならず、それは現実認識を間違えているからである。
そして、現実認識をするのは「五感」である。
しっかりと「見て」しっかりと「聞いて」しっかりと「嗅いで」しっかりと「味わって」しっかりと「触れ合う」ことがなければ、現実は「妄想」でしかない。
SNSという「五感」から遠のいた空間で、現実を「認識」することなど不可能なのである。
そこにあるのは単なる「視覚情報」であり、「言語情報」であるに過ぎない。
たったそれだけの情報で「知った」と思う時点で「妄想」なのである。
五感をフル稼働している者と、視認情報だけで判断している者では、『情報量』に雲泥の差がある。
同じものを見て、同じものに触れて、同じ香りを嗅いで、同じ音を聞いて、同じものを味わっても、その一つ一つの「情報量」に雲泥の差がある。
一口の水を飲み下す時、味わいの中にどれだけ世界が広がっているか?
それが『現実認知の差』というものである。
その差は明瞭であり、その差こそが「高低差」となって現れ、精神性、霊性の「高低差」となって如実に現れている。
そんな「一口の水」の世界を拡げ、奥深く進んだ先に、ようやく「霊性」へとたどり着けるのである。
そこへ「進む」ことでようやく「何が障害」となっているのかも理解する。
自分の中に自分自身で生み出している「障害」となるものを理解する。
スピリチュアルな精神世界、霊的世界は「現実の先」にしか無い。
そこも「現実」だから当然である。
一口の水の中に「甘味」があり「苦味」があり「酸味」があり、舌触りという触覚に「まろやかさ」があり「角」があり「ざらつき」があり「重さ」があり「軽さ」があり・・・・・
それらに「気付く」ことと、現実空間に「霊」があり、その霊にも「様々な」姿があり、それら霊たちに「様々な世界」があり・・・・・
それらを認知することは「全く同じ機序」の道の後先なのである。
人は怠惰である。
山を登るのに面倒だからと、一合目から八合目まで一足飛びに行けるロープウェーを乗ろうとする。
そこへ連れては行ける。
だが、行ったところで「認知」出来ない。
認知する「感覚」が無いからである。
だが、五感が研ぎ澄まされた人は「認知できる」のである。
同じ景色を共有できる。
だがそれを「妄想と解釈」で行えば、向かっている先は「別物」となる。
解釈できる認知力を持たないのに、なぜに解釈出来ていると思えるのか・・・・・・・
だから『妄想』であると言うのである。
だから私は「カルト思考」の人を排除する。
来てほしくないからだ。
来たところでそれを手放せない限り、カルトの妄執からは脱することは出来ない。
見える世界の色彩の広がりを見て、聞こえる音の音色の多彩さを聞き、嗅いだ香りの多重さを理解し、味わったものの奥深さを味わい、触れたものの様々な響きを感じ取る『道』を歩む人にしかたどり着けないのである。
もしそれが出来たなら、空を駆ける龍をその目で確かめることが出来るだろう。
けっして想像という電気信号の中の存在ではないことを、ありありと垣間見るだろう。
人の「守護霊」がその人の口を借りて語っている姿をありありと垣間見るだろう。
自分の守護が自分の思考を動かしているということを理解するだろう。
様々な霊たちが常に「この世」と「あの世」の狭間にいることを知ることが出来るだろう。
自分が自分の「感覚」を蔑ろにしている時、それが「霊性」を失っている時である。
思考世界にはまり込んだ時、妄想という鎖で縛られた自分がいる。
現実に回帰せよ。
現実とは五感である。
霊を知るのも五感であり、神を知るのも五感である。
六感とは五感の極みの先に在る「岩戸」が開けた世界である。
だがそれらを感じるのは「五感」である。
「六感」は「感じる」ものではない。
「五感」がさらに広がった「超五感」とでも言うべきも・・・・
五感無くして六感は成立しないのである。
それらは全て「現実認知」の先にある世界である。
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