『氷菓(古典部シリーズ)』から見る人間の『思考機序』






 これは『氷菓〜古典部シリーズ』という小説、もしくは漫画やアニメもあるが・・・を知らなければわかりにくい内容です。 




私は元々「探偵」である。 

17歳の頃からであるから、ちょうど古典部の面々のように年齢的には「高校生」である。 

そんな頃から始めた意義を、今になって本当に実感している。 



それはさておいて、氷菓に登場する古典部の四人は、いわば一人の『探偵』の要素を四人に分割して、探偵というものがよりわかりやすく描かれている。 


主役の「折木奉太郎」は、いわゆる『推理』を担当しているのだが、彼一人では一切物語が始まりもせず、何事かが起こることもない。 

そこに千反田えるという『明敏な感覚の持ち主』と関わることで、はじめて折木奉太郎の「推理物語」が始まる。 



ご存知の通り千反田えるの好奇心の発端はその明敏すぎる感覚ゆえで、察知した感覚に絶対信頼を置いているのがわかる。 

だが、その感覚が何なのか? 

それを知るための論理的思考がついて来ていないため、もどかしくて仕方がない。 


そんなところに論理的思考で千反田えるの感覚を映し出す『鏡』となるのが折木奉太郎の『推理』である。 

この二人の役割はいわば「右脳」の千反田えると、「左脳」の折木奉太郎ということだ。 



千反田えるは「右脳(日の鏡)」が非常に磨かれてはいるが、「左脳(月の鏡)」は曇っている。 

かたや折木奉太郎はその真逆である。 


この二人の「磨かれたほうの鏡」が合わさることで、探偵という物語が始まり完結してゆく。 


そして、折木奉太郎の推理に必要な情報を司るのが福部里志という「自称データベース」である。 

論理的思考は「情報の組み立て」であるから、福部里志という「情報・記憶」を司る「データベース」は折木奉太郎の推理にとっては欠かせない。 

折木奉太郎と福部里志が「親友」であるというのは、左脳と記憶脳の「親和性」を現わしている。

「左脳」は「記憶」から「必要部分を抽出」して『組み立てる』機能であるからだ。




ここで触れておきたいのが折木奉太郎の推理は「真実を求めていない」ということ。 

かれの推理は常に「千反田えるを納得させること」なのである。 


なぜ折木奉太郎は真実を求めるのではなく、千反田えるを納得させることを推理の帰結点にしているのか? 

それは、折木奉太郎には「真実」が『見えない』からである。 


多分、これが理解出来ないと探偵にはなれないと言ってもいいくらい重要なことである。 


折木奉太郎には真実を知るための「感覚」が備わっていないのである。 

そこが「曇っている」と言ったほうがいいか。 


真実というものに自らたどり着けるのは実は千反田えるだけなのである。 


言い方を変えよう。 

千反田えるの「明敏な感覚」という琴線に触れないものは、他の三人には「全く見えない」も同然であり、唯一、様々な事実がよく見える「感覚眼」を持っているのが千反田えるただ一人であり、折木奉太郎もそのことをわかっているから自ら「真実」を求めるよりも千反田えるを「納得」させることが最も真実に近いということを知っているからである。 


左脳が「現実世界」を知る『術(すべ)』は、右脳の「感覚」を受け取って初めて『知ることが出来る』のである。

右脳が感知し受け取った「感覚」を、左脳が「情報・記憶」にアクセスして「その感覚はこうではないか?」と右脳に返す。

そして右脳の感覚が現実から察知した感覚とそれ(左脳の論理立て)が「合致した」と判断しているということだ。

左脳とは「右脳の問いに答える」というものなのである。



そして最後に伊原摩耶花という「正義」の『柱』が登場する。 

自他の分け隔てなくあやまちを正そうとする姿勢は、探偵が探偵であるための『矜持』のようなものであり、これを失えば簡単に「傲慢な詐欺師」へと転落する。 


答えを導き出すという「真っ直ぐな矜持」を失えば、推理を曲げて帰結させるような事となる。 

簡単に言うと「嘘をつく」ようになるということ。 


だが、安易な帰結や曲がった帰結へと導こうとすると、伊原摩耶花の叱責が間髪入れず飛んでくるから、曲がったことは出来ないのである。

言うなれば「良心の呵責」というものだろう。


 探偵にはこの四人の要素が不可欠であり、そのバランスを見事に表してくれている物語であると思う。





愚者のエンドロール


『氷菓(古典部シリーズ)』の物語の中に『愚者のエンドロール』という物語がある。


主人公たちの上級生のクラスが文化祭で上映する映画を制作していたが、途中で「脚本家」が病気になり脚本が途中で止まってしまった。

だから文化祭で上映されるはずの映画の撮影が進まず完成しないので困っており、脚本家に替わって物語の結末を「探して」物語を「完成」させてくれる人物を探していたところ、ある人物の紹介で「折木奉太郎」に白羽の矢が立った。

そして「古典部」の四人を巻き込んで「脚本」を完成させてほしいという依頼となる。



始めは四人で物語(脚本)を推測していたのだが、偶発的なことがいろいろ起こり、その結果「折木奉太郎」は一人で脚本の「真実の帰結」に辿り着くために推理を重ねていくこととなる。


だが、折木奉太郎は他の三人から外れてたった一人で推理したため、『真実から完全に外れた推論』に帰結してしまう。 

正しさを忘れ、データを忘れ、何より真実を捉える感覚が無いのに答えを出したことで、真実とは全く別の物語を『創造』してしまったのである。

もちろん本人は「それが真実だ」と思ってのことであるが、たった一人で行ったため、様々な『見落とし』をしてしまっていたことを後になって知ることになる。 



唯一、真実にたどり着ける千反田えると、矜持を捨てない伊原摩耶花の二人がそろえばけっして「騙される」ことは無い。

しかし、折木奉太郎一人なら「騙す」ことが可能である。


そう思った依頼者である「入須先輩」に折木奉太郎は簡単に騙されて「コントロール」されてしまうのである。 

『あなた一人で十分』という入須先輩の期待の眼差しを向けられ、そしてそれを「論理的」に説明されることで、折木奉太郎は『調子に乗ってしまう』わけである。


そして、たった一人で「推理」を行い答えを導き出した結果、その完成された「映画」を見た古典部の他の三人からそれぞれ「いい物語だけど真実とは違うだろう」という現実を突きつけられてしまう。

一人ひとり違う観点で「真実じゃない」理由を告げられながら、折木奉太郎は納得せざるを得ないその言葉に打ちひしがれてゆく・・・・

そして最後に「千反田える」から突き付けられた「斜め上」からの視点に驚嘆しながらも「自分の傲慢な過信」を納得せざるを得ない・・・・・



そうしてようやく『実は始めから入須先輩に【見方(視点)】をコントロールされていた』ことに気付き、自分が「おだてられて調子に乗った」のだということに気付いた。



そして、折木奉太郎は入須先輩から「この映画のタイトルを君が付けてくれないか」と言われて付けたタイトルが『万人の死角』というタイトルである。

このタイトルは折木奉太郎にとっては完全な「ブーメラン」となって自らに返ってきて突き刺さるほどに恥ずかしいものとなる。

古典部の三人から自分の「死角」を指摘されたようなものであり、さらには入須先輩の「死角」さえ見抜けなかった自分にブーメランとなって返ってきたのである。



本当によく出来た物語だと思う。 





 私が探偵を辞めた理由は、業界自体が『千反田える』と『伊原摩耶花』を失ったからである。 

この二人を失えば、「物語の創造」となるしかない。 

つまりは『依頼者を納得させるための創造物』を作るのが探偵の仕事となったということである。


それはもはや探偵ではなく物語の創作者でしかない。 



真実を察知する「感覚」を排し、「矜持」を失った時点でそれは探偵ではない。 

そんな探偵ではない者で居続けることが出来ないから辞めたのである。 



多くの人が情報を得ている新聞もニュースも、千反田えると伊原摩耶花の居ない「創作物」ばかりである。 

新聞記者は「いかに真実のように思える文章を書いて、しかも責任を回避出来る」記事を書く職人のようになっており、探偵にもそんなものを求め出したのである。 

矜持を失えば簡単に転がり落ちる。 




『氷菓〜古典部シリーズ』の最初の頃は折木奉太郎と千反田えると福部里志の三人が古典部の部員であった。 

その時に折木奉太郎は千反田えるを「騙して」納得させた・・・という物語がある。 

これは「詐欺」であり「探偵」ではない。 


この時、伊原摩耶花という「良心」が居たらそんなことは起こらなかっただろう。 


真実を見つけ出すことよりも、それらしい物語を創作してしまうほうが、いかに楽なことか・・・・

「矜持」がなければ自分で自分の脳を騙すことなどいかに容易いことか。 



左脳は右脳を騙してしまうほうが簡単であり世話がない。 

それは「左脳」が「右脳」の感覚を『捻じ曲げる』ということであり、それが起こるのは『良心』に蓋をしているからである。


そして物語の折木奉太郎のように「省エネ(怠惰)」に走るのである。



しかし魂にある「良心の矜持」を踏まえている者は、そんな「怠惰」を自分に許すことはない。


物語の中で折木奉太郎と伊原摩耶花が仲が悪いのはそのためであろう。 



そして、伊原摩耶花と千反田えるという「良心」と「右脳」の仲が良ければ、妥協のない真実へとたどり着くために左脳(折木奉太郎)の尻を叩いて、千反田えるが「正しく納得」出来るように向かわせることとなる。 

そして、「正しく納得」出来る物語構築のために福部里志という情報ソース(データ)を求める。 


右脳と左脳とデータと良心の親和・・・・

こうして【探偵】は完成されるのである。 




若い頃から探偵をしていたお陰で右脳と左脳をしっかりと磨けていたのだろう。

「矜持」が有るか無いかで全く違ったものへと帰結することもよくわかる。 

「矜持」という芯のある自分の筋道が無ければ、簡単に歪んで探偵では無くなるということも。 

そして、安易に右脳を納得させるためだけの安易な調査など出来ないということも・・・・


「真実」とは「望む答え」などではけっしてないのである。 




現代の多くの人は左脳に翻弄され、右脳を「騙して」いる状態であり、そのための「情報」だけを拾い集めているというところだろう。 

古典部を発足したばかりの部員三人の時に折木奉太郎が千反田えるを「騙した」時のように・・・・ 

そして、入須冬美先輩に折木奉太郎がコントロールされた時のように「見方を変えられコントロール」されている・・・・ 


どんなに左脳の論理性や推察力が優れていても、右脳も矜持もない状態では「真実」が見えていないから簡単に騙されコントロールされてしまうのである。 


IQが高いからと自分が「賢い」などと思っていたら、足元を簡単にすくわれる。 

現に左脳に傾倒した現代教育の勝者と言われる人々は、完全なコントロール下にあることにすら気付いていない。 

入須先輩のような「コントロールに長けた人」から見れば、赤子をあやす程度のものなのである。 


そうしてここ三~四年の状況を見れば、それが顕著に現れていることがよくわかる。 

『エリートほど操られる』ことを証明したわけである。 





右脳(日鏡)と左脳(月鏡)の序列

右脳と矜持(魂)の親和性・・・ 

それが人の最初に行うべき【岩戸開き】である。    


それは「三柱」となるもの・・・

魂の良心(矜持)という柱に右脳(火)の伊邪那岐、左脳(水)の伊邪那美・・・・

必ず「伊邪那岐命が先」である。

火水の順序が逆になれば「ヒルコ(嘘)」が生まれる。

水(情)が強ければ「良心(矜持)」を曲げる。



左脳とは『怠惰』なものである。

そして「怠惰」の理由を探す。

そんな「左脳」が自分の『主体』となってしまえば、人はすでに『ヒルコ』である。

それは、現実とは相容れない『妄想』という『ヒルコ』なのである。





追記・・・・・


この物語を創作するとき、作者の米澤先生はどのようなことを考えながら物語を綴っていたのだろうか?


折木奉太郎を「罠」にはめるため、古典部の三人を「理由」をつけて推理から外してゆく・・・・

そして折木奉太郎を一人にして・・・・「罠」にはめてゆくようである。


折木奉太郎に「痛い思い」を味合わせて「戒めて」あげているような・・・・

そんな感じだろうか・・・・・・







癒奏術・響庵

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