『優しい世界』 ~新世界の種子
自由 平等 博愛
少し前から本を書くのと同じく、自分の仕事のサイトやその他の「カタチ」を新しくしようとしていたが、
「どのように新しくするのか?」
ということがなかなか明確にならなかった。
それはまるで「卵から孵化する」まで「それが何の卵」わからないというような状態である。
おそらく今から7年ほど前に「産まれた」卵を、ここ数年「暖めて」いたということだろう。
ここ数年の「災厄」のような日々は、卵を「暖める」時期であった。
「暖める」と言えば聞こえはいいが、その実は「練っていた」ということになる。
「災厄」という火の中に卵を入れて、赤く煮えたぎった「鋼」を何度も何度も槌で叩いては再び火の中に入れ・・・・ということを繰り返していた。
「混沌」とした「災厄の火」という状況の中でしか鍛えられないものがある。
それは、その中でしか見えない真実というものがあるからだ。
沈殿した澱のような淀みが混ぜ返されることで浮き上がり、ようやく可視化されて理解できるということだ。
そんな中で「卵」を産み落とし、災厄の火の中に投入して「孵化」させていたのだと理解した時
「あぁ、木花咲耶姫が自ら火を放って神を産んだ理(ことわり)」
なのだと理解した。
そうやって鋼のように鍛えた「卵」がようやく「孵化」を迎える。
魚座の時期が終わる頃、ヒナが殻を破って出てくるため内側から殻をつつき始めて殻の一部が剥がれ落ち、その姿の一端が見えた・・・とでも言うように、ようやく「新しいカタチ」というものが見えた。
それが新しく芽吹かせる「種子」であり、孵化する「ヒナ」である。
ようやく「混沌」とした『災厄の火』から抜け出して、新しくなる大地に芽吹く「種子」となる。
それは「燃え盛る産屋から木花咲耶姫の御子神を龍が連れ出した」という神話そのものの出来事と重なる。
私は「災厄の日々」は終わったが、世界はこれから本格的な『混沌』の時代を迎えるだろう。
「混沌」とは「耕される大地」である。
上下天地を混ぜ繰り返して耕される「混沌」の後に、ようやく新たな「種子」は芽吹き、生まれた卵は「孵化」する。
そこにどのような草木を芽吹かせるのか?
どのような生き物を孵化させるのか?
それが「新たな世界」の芽吹きの始まりとなる。
終わりと始まりが重なる「混沌」中で、最後に残る「新たな生命」の芽吹きは、鍛えに鍛えられた「草薙劔」そのものであり、ヤマタノオロチの「尻尾(終わり)」に残る「強き生命樹」となり行く「ヒナ」である。
ひふみ神示 補巻 月光の巻 第七帖
区別すると力出るぞ、同じであってはならん。平等でなくてはならんが、区別なき平等は悪平等である。天に向って石を投げるようなことは、早くやめねばならん。霊かかりもやめて下されよ。
かつての世界の「平等」は、言うまでもなく「悪平等」である。
それは、杉の木に「伸びるな」と言い、タンポポに「もっと伸びろ」というような『同じ』に囚われた「平等世界」というもの。
松の木に「もっと真っすぐになれ」と言い、柳に「堅くなれ」と言い、クローバーに「木となれ」というような「同じ」に囚われた「平等」である。
それは全ての人に「自分ではないものになれ」と強いる世界であり、だから世界は「歪(いびつ)」で息苦しく、特定の草木しか「認められない」という『強迫観念』を常々抱えざるを得ないという「平等世界」であり、それが最終的に行き過ぎて「男女の別」すらも「同じ」にしようと行き着いた『醜悪』なる「平等」である。
それは「平等」ではなく単なる「均等」というだけの世界・・・・
そこには「自分が自分として生きられる自由」は無く、「均等の型」に自らをはめ込まなければ「承認」されない世界であり、だからこそ人々は常に自分の中の『満たされない承認欲求』を、何か別の「代替物」で補わなければ「均衡」を保てない・・・・そんな不安定さを余儀なくされる世界である。
それらの行き着く場所として「SNS」というものが発生し、スピリチュアルというものが代替し、様々な「代替物」が生まれたが、それらの代替物は結局のところ「代替物」でしかなく、それらをもって『承認欲求』が解消されることはけっして無い。
それどころか、そこから「灰汁」が溢れ出し、行き場を失った欲求の「灰汁」が、様々な場所を濁らせてゆくこととなる。
ひふみ神示 マツリの巻 第九帖
上は上、中は中、下は下の道と定まってゐるのぢゃ、まぜこぜならん、ちゃんと礼儀作法正しく致さな神の光出ないぞ。世に落ちてゐた鏡 世に出るぞ。八月十六日、一二⦿。
様々な植物の「種」を混ぜこぜにして植えて「さあみんな同じように育て」ということを強いてきた世界である。
「立派な木に成れ」という「期待」という名の無言の「強要」のプレッシャーを与えられた草花たちは、だから『蔦草』となって『木模さなければ』ならなくなるのである。
だから松は風に倒れ、柳は風に揺れず、杉は「せん定」されゆく。
自由無き悪平等の世界に『博愛精神』は無く、ただただ「強いる」という『悪平等』の世界となるばかりである。
だからこそ、今、世界は「混沌の渦」へと向かうこととなる。
五十黙示録 五葉之巻 第十帖
悪自由、悪平等の神が最後の追込みにかかってゐるなれど、もう悪の世はすんで岩戸がひらけてゐるのざから、何とやらのように前から外れてアフンぢゃ、七重の花が八重に、八重が九重、十重にひらくのであるぞ、七重はキリストぢゃ、八重は仏教ぢゃ、今の神道ぢゃ、今までの教はつぶれると申してあろうがな。兎や角申さず掴(つか)める所から神をつかんでついて御座れよ、水は流れる所へ流れてゐるであろうがな、あの姿。
20代の後半に私が「心理学」を徹底的に勉強したのは「人材」を「人財」へと認識を改めるための「適材適所」というものを求め、その手段と道筋を見つけるためであった。
その企画論をまとめた「ペルソナ」という論旨は、一応、ある場所で小さな賞を頂いたのだが、社会はまだそれを求める段階にはなかった。
社会は、世界は「成熟の末端」をまだ迎えてはいなかったということが今ならよくわかる。
その中で私が求めていたものは「個性」であり、それが生かされれば生かされるほど個人の「能力」は発揮されるということであり、やはりその時から「個性」というものを「没する社会」であったことに対する違和感を「危機感」として持っていた。
それが30年という時を経て、ようやく『その時』が来たのだという実感である。
だが、まだ大きな「難」を超えていかなければ、それは芽吹かない。
そして、その「大難」こそが『大地を耕す』こととなる。
「大難」を超える中で『耕された大地』に産み落とされた「種子」は、『災厄の炎』で暖められ孵化する「新たな生命樹」という「木の花」の種。
私が産み、鍛えた「種子」は「ヒナ」は、ここ数年来、そしてこれからも続く「混沌」の中で芽吹くため、ようやく「孵化の兆し」を迎えた。
考えれば「ここ数年」ではなく「三十年」も暖められてきたのだと思う。
ということは「いつから決まっていたのだ?」・・・・と思う。
ー出口王仁三郎氏曰く
変性女子は三十年間の神業に奉仕して、もつて五六七神政の成就を待まち、世界を善道にみちびき、もつて神明の徳沢に浴せしむるの神業である。
神業奉仕以来、本年ほをもつて満二十三年、残る七ケ年こそ最重大なる任務遂行の難関である。
神諭に曰く、 『三十年で身魂の立替へ立直しをいたすぞよ』 と。
変性男子の三十年の神業成就は、大正十一年の正月元旦ある。
変性女子三十年の神業成就は、大正十七年二月九日である。
神諭に、 『身魂の立替へ立直し』 とあるを、よく考へてみると、主として水洗礼の霊体両系の改造が三十年であつて、これはヨハネの奉仕すべき神業であり、体霊洗礼の霊魂的改造が前後三十年を要するといふ神示である。
しかしながら三十年と神示されたのは、大要を示されたもので、決して確定的のものではない。
伸縮遅速は、たうてい免がれないと思ふ。要するに、神界の御方針は一定不変であつても、天地経綸の司宰たるべき奉仕者の身魂の研不研の結果によつて変更されるのは止むをえないのである。
三十年の「身魂の立替え」であれば、二十代後半からちょうど三十年となる。
その着地点がようやく訪れたことになる。
そして「残る七年こそ最重要なる任務遂行の難関」というのが、七年前から始まった「覚醒後」の期間であるのだろう。
その期間(最後の七年)に自分が「歪んで」しまえば、おそらく『替え御魂(御魂の取り替え)』となったことだろう。
ひふみ神示 アメの巻 第十三帖
世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ。
因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員ヅラすると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな、五十九柱いくらでもあるのざぞ、かへミタマあると申してあろがな、務めた上にも務めなならんぞ、因縁深い程 罪も借銭も深いのざぞ、岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気付け合ってよき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ。
優しい世界
新たに芽吹く生命樹の種子は「優しい世界」を構成するための一つの「木」
「優しい世界」とは『真の自由、平等、博愛』の世界
悪自由、悪平等という「平面世界」から、立体、立立体の世界へと溶け入る自由と平等の世界
その種は、今までの価値観と全く異なる「亜種」であり、天地の間に広がる空間を自由に、平等に飛び交い伸び育つ亜種の種
新たな「亜人」は天地に溶け入る「神人」の雛鳥
松は松、柳は柳、杉は杉
タンポポも向日葵も紫陽花も
ありのまま伸び咲く世界
それは「平面世界」を突き破り『亜空間』へと伸びる「劔」
ゆえに『亜空間』の理(ことわり)無しには伸び育たない
『優しい世界』は「心」が「真ん中」にある世界
『思い』という平面世界の「下心」から、『愛』という立体世界の「真ん中」に心が昇った世界
- 怒りは憂いに
- 喜びは慶びに
- 悲しみは寧か(おだやか)に
- 恐れは密か(後悔が無い)に
自分が自分で居られなければ、他人に「歪(いびつ)」を強いることとなる
自由無く、平等無き偽りの「愛」という「強いる思い」の平面世界から、「立体」「立立体」「立立立体」へと伸び行く真の自由、平等が息づく世界
そのための 人としてのこの世での「実の道」という確とした『生命樹』となる種を植え
人それぞれの草木が自分らしく息づく世界こそ『優しい世界』
剪定されて悲しむことも無く
期待を強いられて恐れることも無く
ありのまま生きられる世界の道を切り開くには
折れず曲がらず歪まぬ劔とならなければ
大蛇の渦から生き残ることは出来ない道となるだろう
2019年の夏
京都の『神泉苑』に呼ばれて行ったとき・・・・
「導き」なのか「誓い」なのか
ひとつの「心願」を立てた
その二か月前から『音姫(乙姫)殿』の導きで歩き回り走り回り、様々な『奇跡』というものを体験してきたその「帰結点」としてここ(神泉苑)で誓ったのか、御言なのか・・・・
この絵馬に書いて6年弱の月日が経つ。
よくもブレずに来れたものだと思う。
何度も何度も様々な「妨害」なのか「誘惑」なのか・・・・
横道へずらそうとする様々な出来事を超えて来た。
そして未だにそれは止むことは無い。
そういうものである。
心に隙が出来ればすかさず「闇(病み)」が襲ってくる。
それで歪んで横道に逸れてしまうとしたら、それは『神』に見捨てられたからではなく、自分が『神』を手放し「見捨てた」のである。
あちらから『見捨てる』などということはけっして無い。
見捨てる、見限る、手放すのはいつも人の方からである。
だから、けっして見捨てず、見限らず、手放さなければ、あちらはその手を取り続けてくれる。
絵馬に書いたときは「神人一致」って何だ?どうするんだ?と思っていたが、手を伸ばし続けることでようやく「神人一致」がいかなるものか・・・という答えまで辿り着けた。
やはり『御神業の最後の七年』というのは重大である。(それ以前の23年は無自覚であったが・・・)
2019年7月31日のブログ(神泉苑の後日)
御神業とは「人としての仕事」の中にある。
それを『実の道』と言っている。
あちこち神社やゆかりの地を訪れるのは、あくまでも『付帯事項』であり「ただのお使い」なのである。
それを「御神業」などと言うのは愚かである。
御神業を成熟させるために必要な「お使い」でしかない。
まぁ、その「お使い」が大そう大変だったりするのだが・・・・・・
この「神泉苑」の「お使い」までの様々な『乙姫殿』のお使いは、それはそれは大変であった。
だが、その大変さを帳消しにしてお釣りがくるほどの『奇跡』に出会った。
その最たるものが二か月ほど前(2019年5月)の『竹生島』
この時現れた巨大な一つ目龍(渦を巻く龍)は、それはそれは凄まじかった。
宿泊していたホテルの建物全体を「地震か?」と思わせるほどに震わせ、渦を巻きながら空に舞い上がっていった。
その直後に大勢の赤武者の霊が湧きあがった時は、恐ろしさと壮観さで見とれてしまったほどである。
ちょうど「彦根のホテル」であった。
面白いのはそのさらに二か月前・・・・
『木花咲耶姫』に呼ばれて行った『小富士山』
本当に『神話をなぞっている』のだということがよくわかる。
咲耶姫が産んだ御子神を炎の燃え盛る産屋から救い出した龍は乙姫命
それは「豊玉姫」の御子神を預かった「玉依姫」と重なっており、ゆえに「豊玉姫」は「木花咲耶姫」でもあり、「玉依姫」は「乙姫殿」でもある。
平面で見るからわからなくなる。
立体、立立体の理(ことわり)で見なければ見えてこない『世界の重なり』。
ひふみ神示 補巻 月光の巻 第六十二帖
そなたは現実世界のことばかりより判らんから、現実のことばかり申して、一に一たすと二だとのみ信じてゐるが、現実界ではその通りであるが、それが平面の見方、考へ方と申すもの、いくら極めても進歩も弥栄もないのぢゃ。一に一たす一の世界、一に一たす無限の世界、超現実、霊の世界、立体の世界、立立体の世界のあることを体得せねばならんぞ。
そなたは心をもって居ろうがな。心があれば心の属する世界のある道理は判るであろうが。心で描いて、心で先づつくり出してから行為することも、その順序も判るであろうがな。心のうごきが先で、肉体がその後でうごくことも判って居ろうがな。心の世界にないものは物質の世界にない道理も判って居ろうがな。何故に迷ふのぢゃ。霊界が主で現界が従であること、判って下されよ。逆立してそなた自身で苦しんでゐること、早う得心して、うれしうれしで暮して下されよ。
つまり「彦根(竹生島)」で現れた大龍は『直系の大龍神』である。
天目一神(あめのまひとつのかみ)は彦火火出見神(ひこほほでみのかみ)でもあり、天津彦根神と乙姫殿の御子神であり御分霊であり、邇邇芸命と木花咲耶姫の御子神であり御分霊であり、それは稚姫命の御分霊であり瀬織津姫の御分霊であり国常立神の御分霊であり・・・・・・
この『縦糸』の『示現』した存在であるということ。
五十黙示録 碧玉之巻 第一帖
反対の世界と合流する時、平面の上でやろうとすれば濁るばかりぢゃ、合流するには、立体でやらねばならん、立体となれば反対が反対でなくなるぞ、立体から複立体に、複々立体に、立立体にと申してあろう、漸次(ぜんじ)輪を大きく、広く、深く進めて行かねばならんぞ、それが岩戸ひらきぢゃ、低い世界は戒律なくてはならんぞ、人民の頭で、戒律と秩序、法則をゴッチャにして御座るぞ、平面と立体とをゴッチャにするのと同じ迷ひの道であるぞ、気つけ下されよ。病むことは神から白紙の巻物をもらったことぢゃ、この巻物をどんなに読みとるかによって新しき道がひらけるのぢゃ。神からの巻物おろそかにするでないぞ。
『優しい世界』へ至るためには、かくも『優しくない』次元世界の理を掴まなければならない。
だが、それが掴めたとき、視野は無限の広がりを見せ、『優しい世界』を構成する「立立体の機織り」を見ることとなる。
『立立体』へと結ばれた糸が織りなす世界というものである。
それが現界、霊界、神界の『三界共和』であり、人が神と対(つい)となり結ばれ「共鳴」して生きる『神人一致』した世界の現出となる。
そんな「雛鳥」となる「卵」がようやく「孵化」するときが来た。
三十年・・・醸成された「実の道」の「カタチ」が整ったということで、ようやくに『優しい世界』の種を植える時が来た。
最後の7年で『神の糸』を織り込んだその「織物」を、『実の道』としてこの世に現出させることが「芽吹き」であり「羽化」である。
神から我が身に伸びる縦糸は、立立体の世界でいくつもの神々へと繋がるように分かれ、分かれてはいるが一つである糸・・・・・
その意図で更なる「機織り」を行うのが『御神業』であり、その『実の型』としての「癒奏術」の完成である。
完成とは「完結」ではなく「揺らがぬ軸」が出来上がったという「完成」であり、それがいくら姿かたちを変えようと、同じ「縦糸の軸」である限り、その意図の先には様々な神と繋がる。
『実の型』という確かな「道」がなければ、神々は糸を結ばない。
それは、神の意志がこの世に「反映されない」からである。
「反映」されて初めて「繁栄」という『弥栄』となるのであり、だから『実』のないところに「神の機織り」は示現しない。
『実』を出して『型』が出て初めて『道』が出る。
『実』があるからこそ『実感』が湧くのである。
その『実感』とは『優しい世界』の実感・・・
『実』があるからこそ伝わり、紡がれ、受け継がれ、そうして『道』となってゆくのである。
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