『優しさ』は 『憂い』を知らねば 始まらない
「優しさ」とは何なのか・・・
一つの決まった答えはないが、それが無くてはならないという芯がある。
その「芯」のないものは「優しさ」ではなく、優しさに似せた「承認欲行動」でしかなくなる。
「優しさ」とは「人を憂う」ということであり、では「憂う」とは何なのか?
「憂い」を頭で考えて、だから多くの人は間違う。
言葉を知っていながらも、いままでどれだけ「憂い」という言葉を使ったことがあるか?
「憂」という文字は「喪に服した人」を表わしている「象形文字」である。
だから「悲しい」感情なんだと「頭」で勝手に解釈をする。
身近な人が亡くなり喪に服しているのだから「悲しい」に『決まっている』と、勝手に解釈して終わらせて、実際「喪に服している人」の心というものを「心」で感じようとしていない。
ただ「理屈」だけで「悲しい」のだと・・・・・
「涙を流しているのだから悲しいだろう」
本当にそうか?
涙を流す時、人は「悲しい」のか?
大切な人を亡くし、その墓前で人の心は「悲しみ」に支配されるのか?
大切な人を失った寂しさ、もっといろいろしてあげたかった後悔、幸せで嬉しかった思い出、感謝の思い、懺悔の思い、様々な「感情」が「思い出」とともに心に溢れている。
そんなときの涙は「悲しみ」か?
ただただ相手を思い溢れてくる心の「響き」は『愛』からのもの。
失って初めて気付く様々な思いの数々・・・・
その奥に光る『愛』を知る。
そういえば、太宰治も『悲しみの底にきらりと光る愛を見つけた』などと言っていた。
『憂う』とは「悲しむ」ことではない。
大切な人を失った時、心の中に溢れる様々な愛のかたち・・・・
ただただ純粋に相手を思いやり、それがもう出来ない、してやれないもどかしさ、悔しさが「涙」となり、その涙には悲しさ、寂しさ、嬉しさ、感謝、痛み、安らぎ、様々な心の『響き』が混じった「涙」だろう。
その心で人と接することが出来たなら、それは本当の『優しさ』となるだろう。
そこにある「欲」は「自分」の「欠落」を埋める欲ではなく、対する相手の「欠け」を埋め行く「欲」となる。
『憂う』とはそういうこと。
『愛』の始まりのための心の「響き」
暗い顔して俯いた人を『憂い』て隙間を埋め行く最初の響き・・・
欠けたものを埋め、出っ張り尖ったものを埋め行く。
人は一人では円くはなれない。
男は曲がらねど折れるもの
女は折れねど曲がるもの
折れず曲がらぬようにするには、お互いが「欠けた」ものを支え合い埋め合う。
同じでないものを同じにしては、折れて曲がった世界となるばかり・・・
それを「悪平等」というのだよ。
頭でばかり考えて、「どうすればいい」とばかり考えて、だから欠けは見つからず、埋めることが出来ない。
「憂う」心で寄り添えば、何が必要で何が不要か、自分のカタチも相手のカタチも共に見えてくるもの。
水が高いところから低いところへ流れるように、「憂い」は欠けを埋め尖りを丸めてゆく。
大切な人を亡くした墓前で、怒りや悲しみや恐れや喜びが湧くなら、それは心の中に「余計」なものが混じり込んでいる証し。
自分の心にくすぶり続ける感情の火が、湧き出しているということ。
握りしめて放さない感情
置き忘れてしまっていた感情
そんなくすぶり続けている思いが、「憂い」を濁らせ「響き」を歪ませる。
握りしめた、置き忘れていた思いの炭火は、常日頃から心を濁らせる。
そんな濁った心では、相手の心の「響き」はわからない。
『以心伝心』
人の心の「響き」は「思った」瞬間に「伝心」する。
だが心の「濁り」がその「伝心」を妨げる。
濁った心の「響き」を伝え、伝わった心は濁った「響き」となって心に広がる。
だから心がわからない・・・となる。
自分の心もままならず、他人の心など知れようはずもない。
自分の心の『響き』は澄んでいるか?
澄んだ「鈴の音」、澄んだ「鐘の音」、澄んだ水が流れる音色のように、心の響きは澄んでいるか?
心の響きが「澄んで」いなければ『憂い』は濁り、『優しさ』は濁る。
心・口・意は一致せず、曲がり歪んだ『優しさ』となる。
濁った心の響き、濁った言葉の響きは『以心伝心』するのであるよ。
顔に表れ、目に表れ、息づかいに表れ、言葉に表れ、声音に表れ・・・・
日の光が月に映る如く、月明かりが水面に映る如く、『響き』は『以心伝心』するのであるよ。
たとえ『響き』を受け取っても、日ごろから『響き』を感じることをしていなければ、それを言葉にすることも出来ず、それが何の『響き』なのかもわからず・・・・・
だから自分の思いを自分の心に「置き忘れ」たまま気付けない。
置き忘れた思いは「湿った木」を燃やすように燻り煙って心を濁らせる。
まずはそれを『掃除洗濯』
心をきれいに掃除して、『以心伝心』心の響きに共鳴するほどに『磨く』こと。
そして、共鳴した『響き』を「言葉」へ「行動」へと転化するには、自分の心の『響き』を「言葉」に「行動」に転化する癖付けが必要である。
心・口・意 常に三密を一致させること
そうしてきれいに洗われ磨かれた「心」という『器』は、様々な『響き』に共鳴し、『以心伝心』の『響き』を奏でられる。
それが出来てさらに磨かれれば、【神】の『響き』に共振する『心の芯』がわかるだろう。
その【神の響き】は自分の心の『憂い』の響きに対する『応え』である。
『憂う』心の真ん中に『愛』という柱がある。
その柱に【神の響き】は降りるのである。
『憂い』を『慶び』へと進めるために、神の御言は『響き』となって柱を振るわせる。
その『響き』を「言事(ことこと)」へと結ぶのが『三密加持』
常に「心・口・意」を一致させるのが「加持」というもの。
『憂う』心で【神】を偲べば、【神】の『欠け』がわかる。
『憂う』心で【神】に寄り添えば、【神】の『欠け』を埋め行く『響き』となる。
神は我の「欠け」を埋め、我は神の「欠け」を埋め・・・・
神人結ばれ一致した「折れず曲がらぬ『響き』」となる。
『以心伝心』という「五感」の極みの先に、神人一致する「六感」の扉がある。
それを「天の岩戸」と呼ぶ。
天の岩戸は心の真ん中・・・
『憂い』の響きが始まるところに開いた扉。
濁りを清め、曇りを晴らし、ようやく見つかる光の玉響(たまゆら)
『憂い』とは 『愛』の巡りの 始まりの鐘
澄んだ『響き』を以心伝心
言事結んで『優しさ』となる
神をこの世に示現する
始まりの鐘 五十鈴の響き
神を宿した神楽(神蔵)舞
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