『天地人』 天地の岩戸(チャクラ)を開く【籠目】
かごめ かごめ かごのなかの とりは
いついつ でやる よあけのばんに
つると かめが すべった
うしろのしょうめん だあれ
『覚醒』へ至るには【掃除洗濯】が大切であると、ずっと言い続けている。
それが無ければ天の岩戸(七番チャクラ)は開かず、天の岩戸(七番チャクラ)が開かなければ地引の岩戸(一番チャクラ)も開かない。
天の岩戸(七番チャクラ)を開くためには、『天地人』の⦿(中心軸)をそろえなければならず、天地の糸を繋ぐために『人の段』で『結び』が必要なのである。
自分の⦿(中心軸)を・(天軸)に合わせることで、・(天軸)は⦿(人)を介して〇(地)に・(天軸)の雫(しずく)が落ちる。
・(天軸)から降下したその雫を中心とした〇(冠)が跳ねて天へと還る。
それが⦿(まこと)の姿であり、人の在るべき在り方であり、『天地人』が一致した姿となる。
天の・(雫)を柱として地の〇(冠)が天へと還る⦿こそが『真人』であり『神人』となる第一歩となる。
『天地人』の・(軸)を合わせるのは『心』であり、『心』の中心にあるはずの・(軸)を『天軸』に「合わせる」ことが一番最初となる。
それが合致すると、天軸の雫は地へと降下し、そして地から「応冠(おうかん)」として撥ねて帰ってくる。
そこに出来上がった新たな⦿が「新しき自分」の姿の『型』である。
その『型』が出来上がって、そこに必要な様々な要素が「開花」していくのである。
天地の軸を合わせる『心』は「第四チャクラ」であり、そこを「空」にして・(軸)を天に合わせて「天空」とすることが最初の儀。
つまりは『第四チャクラ』を「開く(空)」ことが正しい順序なのである。
△ー天から地へと降下する軸の雫
▽ー地から天へと上昇する冠の雫
ゆえに『心』の第四チャクラは『✡ー結びの花』となる。
△は「火」であり▽は「水」
この「火」とは「火雷」であり、「水」は「火炎」である。
木花咲耶姫の神産み、玉依姫の神孕みの「初段」である。
『天地』とは『陰陽』であり、天から地への降下である「火」は「陰の流れ」となり、地から天への上昇する「水」は「陽の流れ」となって身体の中心軸にそって周囲を『周転』する。
つまりこれは「地(水)の陰陽」であり「天(火)の陰陽」とは「逆さま」なのである。
天の陰陽は「降下」するものが「陽」
地の陰陽は「上昇」するものが「陽」
陰陽の流れは二つある。
間違うべからず。
『天地人』が真っすぐ繋がり⦿(真人)となることで、第六チャクラが動き出し、それに呼応して第二チャクラが反応する。
シヴァがシャクティを「呼ぶ」のである。
シャクティはエネルギーを蓄え始め、周転する「地」のエネルギーは丹田(第二チャクラ)へと注がれ蓄えられる。
その蓄えられたエネルギーは地引の岩戸(第一チャクラ)の「火」によって爆発し、シヴァ(第六チャクラ)のもとへ一気に駆け上がるクンダリーニの龍。
そして『加具土(カグツチ)』の誕生でもある。
天に昇ったカグツチは伊邪那岐神に切り殺されて、そこから神々が再誕生する。
このクンダリーニ(カグツチ)の昇天によって「チャクラ(神々)」は一斉に『開花(再誕)』する。
間違ってはいけない。
これは「昇天するクンダリーニ」だけが引き起こしているのではない。
降下する天からの「火雷の雫」も同時に「雷(いかづち)」となって下降しているのである。
このとき、『人の岩戸』が開かれる。
ヨーガでは「二つの弁」と語られているものであるが、一つは天から、一つは地からのエネルギーで開くものである。
だが、ヨーガの『見方(視点)』は「水の陰陽」のみであり、「日月」の「月」からの一方的、平面的な見方しかされておらず、ゆえに不完全であり「逆さま」な要素で占められているわけである。
第一チャクラは第七チャクラに「呼応」し、第二チャクラは第六チャクラに「呼応」し、第三チャクラは第五チャクラに「呼応」する。
そして第四チャクラは「中心軸」を常に保つところである。
ゆえに第一チャクラを整えるには、第七チャクラを整えれば呼応して整う。
第二も第三も同じ・・・・
最も大切なのは第四チャクラの「✡(結び)」がズレないようにすることである。
だが人はここを最も疎かにする。
そして下からばかりチャクラ開発をする。
それゆえに下腹にエネルギーばかりが溜まり、行き場のないエネルギーは何処へ向かうのか?
心次第の方向へと振り向けられてゆく。
ゆえに歪むのである。
あくまで「火が先」なのである。
「日月」に於いて「月」が先になることなどあり得ないのと同じく、天からの降下が「先」である。
それを「逆さま」に行えば『蛭子』となるのは必至であろう。
「水(地)の陽」は「火(天)の陰」であり、下降した「雷」の「還り」が「水(地)の陽」なのである。
そして、天へと還ったものが再び地へと「還ってくる」のが「水(地)の陰」であり、それは「火(天)の陽」なのである。
「水(地)」からの「見方」に囚われているのは、心が「真ん中」に無いからであり、常に「下」に「心」があるということ。
つまり「下心」の「思い」となっているからである。
それは「水心」であり「身心」であり、そこから生まれる「欲」は「身欲」となる。
ゆえに「天軸」からズレるのである。
結び(✡)が成ってクンダリーニが立ち上がれば、五つのチャクラが機能する。
チャクラは「霊体肉体を結ぶ五臓」であり、第二から第六までの五つのチャクラ(叉蔵)は五臓五腑と共鳴し、五体へと広がりゆく。
チャクラは「霊身」双方にまたがっているわけであり、ゆえに「双方向」の二つの視点をもって見なければならない。
つまりは「火の視点」と「水の視点」の『逆さまの視点』が必要となる。
されど常に「火(霊)が先」であることを忘れてはならない。
つまり、例えば「第二チャクラ」は「腎」を司るが、同時に「肝」も司る。
「火は肝」「水は腎」という二方向の見方が存在する。
逆に「第六チャクラ」は「火は腎」であり「水は肝」である。
「第三チャクラ」は「水」の見方では「心」であり、「第五チャクラ」は「肺」である。
「火」の見方は逆となる。
この場合の「心」は「心臓」であり「心(こころ)」とは違うもの。
では第四チャクラは?
「脾」となる。
「脾」は「霊(ひ)」と表裏する部分であり、「腹の表裏」と表現し、それゆえ「霊懸かり」する際に「腹に懸かる」と言うわけである。
「腹黒い」は「霊の闇(病み)」であり、「裏腹」であるのは「霊身」が一致していないということである。
「思い」に沈殿した下心は「頭(思考)」に沈殿しているという道理であり、頭部、下腹部双方に「沈殿」しているわけである。
この「天地逆さま」に合流している道理がわからなければ、二方向の視点がわからなければ、それはつまり「軸」がブレている証しでもある。
これが自然とわかるように「軸」を中心に整えなければならない。
「地引の岩戸」が開き「クンダリーニ(カグツチ)」が誕生するということはそういうことである。
天に昇ったカグツチが伊邪那岐神に切り殺され(転化され)て、全身へとそのエネルギーは流れてゆく。
例えば「経絡」という道を通り、流れゆく様を「劔から滴り落ちて産まれる神々」とも称する。
カグツチの死体は八つに分かれ、頭に一神、胴に三神、両手両足に四神の計八神が生まれる。
その中で「胴」に生まれた三神は「三焦」に相応する。
「上焦、中焦、下焦」の「三焦」である。
それは「上綿津見、中綿津見、底綿津見」であり、大祓いの「速秋津姫、気吹戸主、速佐須良姫」であり、「三焦」という「大海原」を支配する「スサノオ神」でもある。
もとは「山津見八神」であったものが「スサノオ神」が「黄泉」追いやられて「山祇五神」となっている理由がわかるだろう。
五臓五腑五茶蔵(ちゃくら)が治まる胴という海原(産腹)から、霊身を結ぶ『チャクラの機能』が失われたのである。
あまり書きすぎると頭が混乱すると思うのでこの辺で区切っておきましょう。
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ひふみ神示 第二十七巻 春の巻第三十帖
宇宙のすべてがつながりであるぞ。石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。手と頭のようなもんぢゃ。拝み合へよ。親しみ合へよ。和せよ。和すと自分となるのぢゃぞ。自分 大きく、明るくなるのぢゃ。豊かにうれしうれしぢゃ。赤いものの中にゐると赤くなって行く。理に向ってゐると、いつの間にか神の気いただくぞ。神の光がいただけるのぢゃ。
二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいで理は判らん。神は解らん。体験せねばならん。一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう。
五十黙示録 碧玉之巻 第十帖
・・・・一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。・・・・
五十黙示録 星座之巻 第十三帖
父のみ拝みたたへただけでは足りない、母に抱かれねば、母の乳をいただかねば正しく生長出来ないのであるぞ。一神として拝んでも足りぬ、二柱でも一方的、十万柱としても一方的ぞ、マイナスの神を拝まねばならん、マイナスの神とは母のことぢゃ、天にまします父のみでは足りないぞ、天にあれば必ず地にもあるぞ、一即多即汎、地即天、天即地から表即裏である、マコトを行じて下されよ。
五十黙示録 極め之巻 第七帖
今まで世に落ちてゐた神も、世に出てゐた神も皆一つ目ぢゃ、一方しか見へんから、世界のことは、逆の世界のことは判らんから、今度の岩戸ひらきの御用は中々ぢゃ、早う改心して こ(九、光)の神について御座るのが一等であるぞ。外国の方が早う改心するぞ、外(幽)国人とは逆の世界の人民のことであるぞ。神の目からは世界の人民、皆わが子であるぞ。世界中 皆この神の肉体ぞ、この神には何一つ判らん、出来んと申すことないのぢゃ。どんなことでも致して見せるぞ。
五十黙示録 第六巻 至恩之巻 第十一帖
いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の治らす国もナミの命の治らす国も、双方からお互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ。
ひふみ神示 キの巻 第十四帖
三月三日から更に厳しくなるから用意しておけよ、五月五日から更に更に厳しくなるから更に用意して何んな事起ってもビクともせん様に心しておいてくれよ、心違ふてゐるから臣民の思ふことの逆さ許りが出てくるのざぞ、九月八日の仕組 近ふなったぞ、この道はむすび、ひふみとひらき、みなむすび、神々地に成り悉く弥栄へ 戦争つきはつ大道ぞ。
一時はこの中も火の消えた様に淋しくなってくるぞ、その時になっておかげ落さん様にして呉れよ、神の仕組 愈々(いよいよ)世に出るぞ、三千年の仕組晴れ晴れと、
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