霊の食事




食べ物に気を使う人は多いけれど、霊の食べものにまで気を使う人は希少だろう 。



霊の食べ物は「言葉」 

そして、言葉に含まれる思い 


それらを食べて・・・・ 

とは、『言葉で生まれる自分の思い』・・・ 

それが自分の心の姿、霊の姿(霊体)を育み、育まれた自分から発せられる強い思いが「念」となり「幽体」という「意志体」が育まれる。 



さあ、普段あなたたちはどんな言葉を食べている?



現代人はジャンクフードのようなものを食べている人も多いことだろう。 



身体は食べたもので出来ている。 

霊体も幽体も、食べた言葉で出来ている。 


ジャンクフードばかり食べ続けた身体はどんなだ?

snsの刺激ばかり強い「お菓子」のようなスナック菓子を食べている身体はどんなだ? 

動画を早回しで見て情報だけ掻き込む、まるで麺類を噛まずに呑み込んでいる身体はどんなだ?

ショート動画や「つぶやき」のようなゼリーばかりで、「食べる」力が衰えていないか?

甘い言葉ばかり採って、メタポになってはいないか? 



言葉を味わうことも忘れ 

噛み締め砕いて呑み込むことすら忘れているだろう。




美味しい料理、健康的な料理が身体に染み込むように、美味しい言葉、健康的な言葉は心を良きに動かし、良き思いが溢れ、霊体に染み込んでゆく。


ちなみに、頭で美味しいのと、身体で美味しいのとはまるで違う。


そんな霊体から発せられる一念は、美しき幽体となる。



だが、ジャンクフードばかりの霊体はどうだ? 

やせ細って青白く微かなものとなり、幽体も消え入りそうな薄さだろう。 


または、メタポのようになり、まるで太らされた家畜のようになっているかもしれない。 

または、怒りで気が上がり、頭からツノが出ていることだろう。 




霊体は心次第であり、それは「食べたもの」で出来ているという、身体と同じ「道理」である。 


そんな霊体が身体に重なり、身体は霊体に寄せられてゆく。 

普段どんなに良い食事を採っていても、霊の食事がお粗末であれば身体はそちらに寄ってゆく。 


また、どんなに良い言葉であっても、「食事の偏り」は身体に悪いのと同じで霊体にも悪い。


硬い物、苦い物、辛い物でも、ちゃんと噛み砕いて呑み込めば栄養となるように、言葉も同じくちゃんと「噛み砕いて」呑み込めるなら、霊体は益々磨かれ美しさを増す。


噛まずに丸呑みするのは蛇くらいのものだ。

だがそんな人が増えている。




純粋で真っ直ぐで偽りの無い言葉ほど、霊体にとって良いものはない。 

そうやって言葉をしっかり噛みしめて「いただいて」いるなら、同じ言葉でも人によって「味が違う」事がわかるだろう。 

見た目は同じ料理でも、食べたら味が違うことがわかるのと同じこと。 


言葉を噛みしめて味わうことが少なくなった現代人は、だから昔の人のような霊の美しさが失われている。


料理にも言葉にも「作り手」の思いが表れて味が変わるのは同じことだ。






神が人に懸かるとき 霊相応の霊懸かりとなる

霊がケモノでは神は懸かれぬ 似た者同士の霊懸かり

希薄な霊では消し飛ぶし メタボな霊では重すぎる

鼻高天狗に悪鬼では 悪神懸かりがいいところ

なにより偏り我が懲りた 霊では懸かる余地も無し

余地が無いのはもう既に ヒルコに懸かっているからぞ



神の御言が通らぬは 栄養失調なる霊体(カラダ)

神の力が出ぬ霊に 神の御言は現わせぬ



言が駄目なら事出せと 事代主が事結び

それでも上手く使われぬ お役となるにはほど遠し


思いを言葉にせにゃならぬに 言(栄養)が足りない霊体(おカラダ)に

御言 降ろせど現わせぬ 現わせぬゆえ事へも結べぬ




足りない『言(栄養)』を補わなければならぬのに

目先の『事(情報)』に振り回されて

気付けば霊の言の食事は 家畜のエサの如きもの

「生きるため」という生命活動

そのためばかりの「言」のエサ

頭で食べる言のエサ 五感で味わうこともなく

心を養うこともなく ゆえに霊体(おカラダ)養われない

瘦せこけた霊体(おカラダ)で どうして他人に与えられるか?


あの世 神世の豊かさは 『言』の豊かさ繊細さ

言の中に五感在り 目耳鼻舌肌の五色が

色とりどりに織り交ざり 世界を鮮やかに彩る


だから祝詞をとなえても 人によって祝詞世界の彩りが違う

その違いは祝詞の祷りの『力』そのもの



現実世界と霊の世界の違いは 『言の響き』の違い

灰色の響きと 色彩溢れる響きと

その違いが人それぞれの「霊」の世界の違いとなる



思いの「言」が色とりどりで 霊の世界は彩られる

思いの「言」が単調な色合いならば 霊の世界は簡素で貧しい世界

霊の一念が懲った幽界は 霊の世界が豊かなら豊か、貧しいなら貧しさを示現する

現実世界は幽界の さらに懲った現れである




ひふみ神示 夏の巻 第六帖 

ほんとうにモノを見、きき、味はい、消化して行かなならんぞ。地の上にあるもの、人間のすること、その総ては霊界で同じことになっていると申してあろうが。先づ霊の世界のうごき大切。霊の食物、霊の生活、求める人民 少ないのう。これでは、片輪車、いつまでたってもドンテンドンテンじゃぞ。そのものを見、そのものに接して下肚がグッと力こもってくるものはよいもの、ほんものであるぞ。キは総てのものに流れ込むもの。信仰は理智的にも求められる、完き情である。真理を理解するのが早道。確信となるぞ。



補巻 月光の巻 第三十八帖

 はじめの喜びは食物ぞ。次は異性ぞ。何れも大きな驚きであろうがな。これは和すことによって起るのぞ。とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。よろこびは神ぢゃ。和さねば苦となるぞ。かなしみとなるぞ。先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。その喜び、おどろきを何故に求めんのぢゃ。何故に神示を食べないのか。見るばかりではミにつかんぞ。よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。喜びが神であるぞ。次には神との交わりぞ。交流ぞ。和ぞ。そこには且って知らざりし おどろきと大歓喜が生れるぞ。神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。神が霊となり花むことなるのぢゃ。人民は花よめとなるのぢゃ。判るであろうが。この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。永遠につづく結びぢゃ。結婚ぢゃ。何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。よろこびぞ。花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。消えざる火の大歓喜ぞ。これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。早う神のふところに抱かれて下されよ。



癒奏術・響庵

心と身体と魂を癒す・・・それが「癒奏術」 肉体から霊体へ、霊体から神体へと手が届く唯一の施術です

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