火事と放火とネット炎上
火事が起こりやすい要素として「乾燥」というものがある。
乾燥した時期ほど火事は起こりやすく、そして鎮火しにくい。
そこに風が吹けばさらに燃え広がってゆく。
昨今の山火事は「乾燥」と「風」という要素で燃え広がり、なかなか鎮火しにくいという状態なのだろう。
そして、もっと言うならばそれは「自然の理(ことわり)」である。
人の観点からは「悪い」事なのかもしれないが、自然の観点からすればそれは「理(ことわり)」に他ならない。
渇いて「潤い」を無くした大地は、一種の「浄化」を求める。
空気の乾燥は「寒い時期」に起こる。
空気中の「水蒸気」が大気中に「上昇」しないからである。
だが、真冬の時期は「大地」に水分が「個体」としてあるため、さらには木々にも同様にあるため、空気は乾燥していても「燃える媒体」はそうではない。
それが「春」が近づくにつれ、表層の個体は溶けて太一に吸い込まれてゆく。
そうすると「燃える媒体」も表層の水分が落ちて燃えやすくなる。
もし、冬の間に雪が積もって山が「潤って」いるなら、早春の時期に木々も潤っているだろう。
しかし、雪が積もらず冬の間、実質的に「乾燥」し続けていたなら、山は「乾いた」状態となり燃えやすくなる。
となると、山としては「キャパオーバー」であると感じるだろう。
「キャパオーバー」というのは、山の水分量に対して木々や動植物の量が「多い」ということになる。
するとヤマハどうなるか?
木々や草草に水分を持っていかれ、山自体に「潤い」が無くなる。
そうなれば山は「崩れやすく」なる。
崩れやすくなった大地で木々は「もっと根を伸ばさねば」と、より多くの根を張り「水分」を吸収しようとする。
結果、山は表面から「砂化」してゆき、気の根は徐々にむき出しとなってくる。
そうして山全体の「生命活動」が徐々に失われてゆく。
山の立場からすれば「リセット」したいところだろう。
木々が燃えればそれは「リセット」となる。
ゼロから新たに「必要量」の動植物が徐々に増え、山の持っている「ポテンシャル」相当に落ち着いてゆく。
若草山の「早春の山焼き」はそもそも「霊祭」であり、「火の浄化」をもって「霊」を鎮めるというもの・・・
それを理由にして「通りすがり」に誰かが「火を点ける」という「放火」が常習化していたもので、『悪いことが起こらないように』という一種の正義感に似た理由であったという。
では「鎮めなければならない霊」とはどの様なものだろうか?
それはおそらく人々の怨念、怨嗟の「思い」の『凝り』と言えるものだろう。
人の心が潤っているならば、「放火」をしようなどと言う衝動は起きない。
『悪いことが起こらないように』という正義感は、『悪いことが起こっている』ことに対する不満が端緒であり、若草山が燃えるのを人々が眺めることによって「蓄積した不満」が解消される・・・・
そうして「人心」の熱量が下がり『悪いことが起こらない』方向へと流れが変わる・・・といったところだ。
そうして人々の心の「怨嗟」が「霊化」していたものが、人心の不満が「火」によって解消されることで「霊(生霊)」は浄化されるということだ。
ネットの「炎上」というものも「火事」と同じ要素で燃え広がる。
「乾燥」した『人心』とは「飢え渇き」という『欲求不満』が大きく、『不満の解消』はけ口としての「正義」で燃え広がる。
そして、同じ『不満』を抱える人々が、そこで燃える(炎上する)火に魅了されて集まり、同じように燃料を投下して、さらに燃え広がることで『欲求不満』が解消されてゆく。
「燃え残り」があればそこへも燃料を投下して、「きっちりと燃え尽きる」ことで溜飲が下がるように落ち着くのである。
火の不始末で火事が起こるように、ついうっかりした言葉で「炎上」してしまうこともある。
たまたま「乾燥した人心」に着火してしまった・・・・ということだ。
そして、当然そこには『放火犯』もいる。
自ら火を点けることで欲求を解消してゆく。
家々や山に火を点けて回れば犯罪であるが、ネットでならハードルが下がる。
「陰口」をたたいて解消できる者なら放火まで至ることもないだろうが、そんな相手も居なければ「ネット」の中で陰口をたたく。
都合よく「自分が誰かわからない」ということが、ネットでの「放火」を助長させる。
そして、それを目にした「同じ不満」を抱える者が次々と同調してゆき『炎上』という燃え広がりを見せてゆく。
放火の心理
犯罪心理学研究の教授の言葉を引用させていただきます。
犯罪学で放火は、「弱者の犯罪」あるいは「弱者の復讐」と呼ばれている。放火は、体力・気力の充実した壮年の強者によっては犯されることが少なく、弱々しい性格の持ち主や社会的な弱者(失業者、女性、いじめられっ子など)によって犯されることが多い。
放火は、うっ屈した不満や攻撃心を直接的に相手にぶつけることのできない弱者であっても,容易に実行できる。極端に言えばマッチ1本で実行できる。しかもその被害は甚大であ る。自分の放った小さな火が、大きな炎となって燃え上がる。その燃え上かる炎は(それを想像することさえも) 、犯人を興奮させ、うっ屈した怨嗟の感情を放散させる効果があるといわれる。
火を放つ弱者の心理を理解する上で、「攻撃対象の転位」という考え方が有用である。犯罪心理学でいう「攻撃対象の転位」とは、攻撃感情が直接的に本来の相手に向かわず、屈折して他者への攻撃行動が生じることである。放火は,しばしば本来の攻撃対象から転位されて生じる。
放火の動機は圧倒的に 「怨恨・憤怒」が多く、ほば半数の放火犯(男性においては44 % ;女性においては52 % )がこの動機によるものであるという。
そのほか,男性放火犯では「犯行の隠蔽」や「保険金目当ての利欲」、女性放火犯では, 「痴情関係のもつれ」、「羨望」、「復縁願望」などが動機であるとされる.
*武庫川女子大 斉藤教授ーロールシャッハ・テストによる連続放火少年の人格査定のはじめ書きより引用
ネットやSNSに於ける『炎上』という火事は、このような動機の人々が「みんなやっているから」とか「マッチ一本くらいなら」とか、中でも一番の理由は「誰かわからない」という安心感から『自分も』という衝動のハードルが下がった『場』で起こる火事であり、自分が火を投じ燃料を投じた『場』が自分の行動によって「燃える」という状況を目にして興奮を覚え、欲求を解消してゆく様が見えるのである。
仮に、そこで人が怪我や病気や、命を落とすことがあってさえ、罪悪感は「希薄」でいられるわけであり、それは「大勢が同じようにやっている」という「希薄」さや、「自分は正義」という大義名分を「欲求不満解消」の理由として堂々と挙げているからであろう。
つまりは、先に挙げた引用の中の「弱者の復讐」という様相そのものであろう。
放火は、うっ屈した不満や攻撃心を直接的に相手にぶつけることのできない弱者であっても,容易に実行できる。極端に言えばマッチ1本で実行できる。しかもその被害は甚大であ る。自分の放った小さな火が、大きな炎となって燃え上がる。その燃え上かる炎は(それを想像することさえも) 、犯人を興奮させ、うっ屈した怨嗟の感情を放散させる効果があるといわれる。
ネットやSNSこそ『真実の場』などと言っているのは、『同じ不満を持つ仲間の場』であるだけのこと。
彼らの真実は『同じような不満の代償行為』であり、『共通する感情』であって、けっして『情報』などではない。
ここ神戸は、兵庫県はこうした『欲求不満のはけ口の場』として、昨年から鎮火することのない火事が起こり続けている。
兵庫県の「火事」を見て、全国の「不満者」が『火』を投入し続けているのである。
火を投じている人々の「怨嗟の念の生霊」が、同じような波長の人に『伝染』してゆき、さらに火種は投じられてゆく。
これは30年前の阪神・淡路大震災のように『災害』そのものなのである。
県外からも投入され続ける火種や燃料によって、災害を被っているのは兵庫県民なのである。
正義の名のもとに「屈折した欲求」を吐き出す人々には「正論」などは一切通じないわけであり、それは『放火犯』を扱うようにしなければならないのである。
口汚く罵る者、小児のような口調を使う大人、都合のいい理屈だけを切り取る者、「元彦さん可哀そう」と言いながら県庁に群がるハイソな奥様方・・・・
それぞれ「抱えている不満」や「表現手法」の差異によって現象が分かれるが、大元はひとつ、『欲求不満』なのである。
その「乾いた心」という「飢餓」が生み出す心の『念の凝り』という生霊は、『餓鬼畜生』そのままの姿となり「近い波長」の人々に「伝染」し行くのである。
だから『霊懸かり』だらけであるということだ。
どんなに表面を取り繕っても、肉体に被さっている霊体そのままの「似姿」となる。
自分で生み出した生霊に自分が乗っ取られてゆくという、愚かな様をずっと見続けているのであるが、一向に収まる気配はなく、それどころかどんどん広がり続けている。
もし、自分がそこから『脱したい』と思うなら、自らで自らを『潤す』ことである。
渇きに火を点けられ「ゾンビ」のように「喰らう」ばかりの行動から抜け出したいなら、とにかく『潤す』ことである。
必要なのは「火」ではなく「水」なのだから・・・
代償行為で「火」を起こしても、乾いた心は潤わない。
だから「続けて(連続放火)」いくこととなる。
デマを流し続ける「放火犯」と、燃える火に陶酔する野次馬がさらに火を投じ、火が消えぬように「デマ」を「真実」と言い続ける。
フロイトは「放火は性的衝動」とも言う。
まさに兵庫は『炎上ポルノ劇場』と化した『放火場』として、若草山の如き「怨嗟の怨霊」を鎮めるための場と化した。
しかし、それで「潤う」ことのない人々の心は、更なる「炎上」を求めて彷徨う。
彷徨う心はそのまま「彷徨う霊」となり、どこかの誰かに「取り憑く」まで彷徨うのである。
そして、どこかの誰かの「鎮火」によって、ようやく鎮まるのである。
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