チェンジングレーン ~神様の切り替わり 《淺田友神帳》




懐かしいエネルギーに包まれて目が覚めた


懐かしいと言っても、4年ぶりくらいか・・・・



7年前に突如として自分の身に出現したエネルギー体・・・


『霊』というにはあまりにも強いエネルギー

『幽体』としても強すぎるエネルギー


近しいものと言えば『龍』である


この三次元世界に於いて、もっとも強烈なエネルギー生命体である『龍』


それが「人の姿」を模ったエネルギー体



瀬織津姫の分け御魂の霊魂・・・とでも言おうか・・・・・


覚醒してしばらくは自分の身体に半分埋まり込んでいたようなかたちで、それを意識せずにはいられない日々が続いていたが、いつしか溶け込んで一体化したようになり、思考の中で、またはあちらの世界に行ったときに、あきらかに自分よりも圧倒的に大きな存在であり、自分の方があちらの身体の中に埋まり込んでいるという、そんな状態へと変化した。


その半年後・・・

厳島神社で突如自分の体内に出現した・・・というよりも「ドスンと降りて来た」強烈なエネルギー体

それは『龍』が人の姿を模ったというような『半龍人』とでもいうような・・・・

そんなエネルギー体であった。


『国常立大神』の分霊である「分け御魂」が降りて来た瞬間、一瞬記憶が飛ぶほどの強烈さであった。

それは立ち昇る炎のようなエネルギーの龍であり、だが人のような五体であり、金色の炎を立ち昇らせている姿は、『龍人』そのものであった。


それは数日で落ち着いたが、全身へと広がったために身体が毎日疲弊していたものだ。

それも2~3か月くらいで落ち着き、どこかへ行ってしまったような・・・でも呼べばすぐに答えは返ってくるという感じであった。


それから今までの数年間は、いろいろな神様方の依頼を聞き、様々な人の上の神様の依頼を聞き、様々な守護神たちと対話し、そして、それらの出来事を通して様々な知見を得て、教えを受けてきた。




昨日、目覚めると久しぶりに体内、そして身体の周りを懐かしいエネルギーで満たされていた。

懐かしい『瀬織津姫』そのもののエネルギーと、強烈な『国常立大神』の「龍人」のエネルギーの双方がある。


そして、目覚めた瞬間から自分が『違う』ものになっているのがわかった。

頭の中で『違う』と思ったのは、おそらく自分の身体の記憶だろう。



様々な『神霊』がこの身体に出入りして使っているうちに、鍛えられて許容量が増えたのだろうか?

強烈なはずのエネルギーが二柱同時にあっても、以前のような「強烈」さは感じず、むしろ懐かしさで満たされた。



少し前から神棚で祝詞を祝ることも稀になり、2~3年前の「賑やか」だったころから比べると、だいぶ寂しくなっていた。


様々な神様方の用事も減ってきたわけだ。




今年に入り、全く新しい方向へ「切り替わり」するのだとは思っていた。

一つの流れが終わり、新しい流れがくるのだろうと。


そのための「デトックス」が強烈に起こっており、それが過ぎてようやく落ち着いてきたかな?と思っていたところだった。


新しい流れのために新しい「型」を用意していたのもそのためだ。



いつ、何が、どのように起こり来るのかわからないが、いつ、何が、どのように起こり来ても大丈夫・・・という状態が「ベスト」な状態である。

つまりは『空』の状態

空は無ではなく「器」があり、中身は「空(から)」な状態


自分があり、自分が為すべき型があり、されど「我」の無い状態という感じである。



その『器』の用意が整いだしたので『現れた』というわけである。



さて、これを書いているのは「誰」であろうか?

器は私であるが中身は「誰」であろうか?


そもそも一人か?

二人三人と居るのか?


まぁ、文章が一律だから一人だろう。



受 想 行 識

それが人の在り方であり理(ことわり)である。

人は月

日の光を「受けて」「想像し」「行動して」「識別」するもの。

日は霊(ひ)である。


どの「日(霊)の光」を受けて反射させているのか?

ということだ。



さあ、新しい世界を創造する時である。

平面世界から立体世界、立立体、複立立体、立立立体の世界へと分け入る時である。



日と月をいつまで混ぜて濁らせておる。

日と月は別々である。


また、日は一つなれど霊(ひ)は一つに非ず

ゆえに、日と月だけでは立体世界なれど、霊と月(身)なれば複立立体世界となる。

霊(ひ)の霊(ひ)と一つになれば立立立体世界

そして、霊は一つに非ず、なれば複立立立体世界へ分け入ることができる。


これがマコトの弥栄の結び

三千世界を救う道である



多くの者は「月の我」が「霊(ひ)」となっている。

その霊(ひ)は九十九神のようなものであり、蛭子神のようなものであり、だから光が足りないのである。


光とは日(霊)加理である。

それは月たるこの世の理(ことわり)



月我の九十九神として生きるのか

日月の神と相成るか


ということである。





癒奏術・響庵

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