『Z世代とSNSと人格攻撃』 ~土星牡羊座から始まる切り替わり






Z世代と言われる人たちが「どのような」社会性という環境の中で育まれてきたか・・・

それを一番顕著に現わしているのが『人材派遣』というシステムだろう。



私が社会に出たころには『人材派遣』などというものは在ったかもしれないが無かったかもしれない・・・という「思い出そうとしても思い当たらない」ものである。


会社が人間一人を雇うのに、その人物が「どのような人物か」ということを「理解」しようとしていた。

その人物がどんな思想を持ち、どんな行動規範を持ち、道徳的に逸脱していないか・・・

そういったことをちゃんと「見ていた」時代であった。


そういう「見る」の先には、その人物だけに留まらず「背景」となるものも「在る」という認識であり、背景とは家族であったり交友関係であったり、その人物と関わる人々の「存在」というものも「含めて」一人の人物を「見る」というのが「当たり前」であった。


だから人を「育てる」という時に、その人物の背景までも考慮したりする。



そもそも「人間」とは「1人」で成り立つものではない。

そのことを「当たり前の事」として、それが「基準」となり、だからそのように「育てる」という行動になるわけである。


つまりは「個」としての人間の「違い」というものを当たり前の事とし、その「違い」というものを少なからず「尊ぶ」という「空気」があった。



だが、人材派遣というシステムは、その人物の思想や信条、環境や背景など「どうでもいい」わけであり、ただ単に「仕事をこなす」という「道具的役割」を「こなせるか否か」だけが判断基準となる。

つまりは「雇う側にとっての道具的価値が在るか否か」というもの。

それは、雇用する対象者を「人間」という視点では見ておらず、「道具的価値」として見ているわけで、それはすでに「物」として見ているということと同じことなのだ。




失われた三十年というものは、人が道具へと「価値転落」していった三十年でもある。


そうなると、社会全体も同じ「空気」を吸うわけで、その「空気」が全体に蔓延していく。

企業が「それ」を求めれば、企業に求められる人を教育するという「教育機関」は即座に対応してゆく。

すると、学校でもそのような「空気」が通常の空気となり、「社会とははじめからそのようなもの」と子供たちは認識するわけで、そのように認識すれば環境適合してゆくのは当然である。



調査の現場に居たからよくわかるのだが、バブルがハジけ、企業が方針転換して「雇用」そのものが方針転換されたことを良く知っている。

かつては「人物の背景」まで知ろうとした「人間観察」というものがある時期から無くなり、企業は「固定費」という観点で「人材」というものを見るように転換した。


その転換が「空気」として社会全体に蔓延していくのにさほど時間はかからなかった。



つまりは、「人間」という存在自体を「道具的要素」としての「一面」を主とした「見方」へと転換したわけであり、それが通常の「環境」として育った人々・・・・

それを『Z世代』と言っている。



そうして人間を「道具的価値」として見て来たことで、企業は利益を確保し続けることが出来た。


だが・・・・

そのツケは払わねばならない。


SNSの普及によって、「道具」として見て来た彼らが、今度は「道具的価値」としてしか見ない目で「人」を扱うわけであり、だからSNS上では「誹謗中傷」というものが当たり前のように繰り広げられる。


様々な人格攻撃が行われるのも、結局のところ元を正せば「そこ」へ行き着く。


他人は「道具的価値」

それが「人格攻撃」することが「悪い」という「価値基準」の無い空気で育まれた「認識」なのだ。



それは「人格」というものを「無視し続けた」社会がもたらした結果である。


だから「批判」と「誹謗中傷」の『区別』というものが出来るか否かは「育まれた空気」によって変わるはずである。


誹謗中傷を「批判」していると思い込んでいる人たちは、その「区別」が何なのかがわからない。

下手をすれば「批評」「論評」していると思い込んでいる人もいるだろう。


「人格攻撃」と聞いても、そもそも「人格」というものを無視されて判断され続けて来た社会の中で、そしてそのような「空気」の中で、「それが悪い」という認識を持つには至れない。


人格攻撃の末に「何事か」事件が起こって初めて「悪いことだったのだ」と認識するに至るであろうし、たとえ「悪いことをした」と認識出来ても『どこに線引きがあるのか』まで理解できるかはわからない。

理解出来たなら幸いであろう。


それほど社会に蔓延した「人格を無視する」という空気は、現在でも続いているのだから・・・・・



学校で「いじめ」をしていても、当人は「いじめている」という自覚はない。

線引きが出来ないからだ。

そして、出来ないのは「線」がそもそも「引かれていない」のだ。


つまりは「線引き」を消すことで企業などは「雇用基準」を転換した・・・ということである。



例えば、警察官になる際は、今でも「人物調査」は行われている。

「行っている」とは言わないが、当然、行っている。


昔は一般企業も当然のように行っていた。

その人物の背景や思想信条というものを大企業ほどきっちり行っていた。


だが今では皆無である。


「個人情報の観点からそれは不当だ」

「プライバシーの侵害だ」


今時ならそう言われることだろう。



そう

それこそが「空気」を作っているものでもある。


「プライバシー」

「個人情報」


それこそが「個」を「個」たらしめるものであるのだが・・・


それを「見るな」ということは、自ら「道具的部分だけを見ろ」と言っているのである。


人間という「奥行」「幅」は「個」を認識させる「情報」によって作られる。

だがそれを「見るな」となれば、見るものは「上っ面」だけになる。


自ら「上っ面以外見るな」と言いながら、「人間として見てもらえない」という現実に押しつぶされる。


失われた三十年と言われる「三十年前」に転換した日本の姿である。



それは日本のみならず世界で進んでいる「グローバル化」というものの実体そのものであり、その根底にあるものが「人の価値観の希薄化」というものである。




その流れを「是」とする者たちは、この三十年の「人の価値の希薄化」によって利を得た人々であり、それを否定すれば今持っているものが失われる。


そんなところに「トランプ大統領」という存在が現れた。

この三十年の流れを「是」としない厄介者である。



さぁ、土星は今「牡羊座」から「土台を作る始まり」の時を告げている。


何を作るのか?

何を始めるのか?


失われた三十年・・・と言われているが、その内側しか知らない人は「何が失われた」のか知らないのである。

すでに「失われていた」環境しか知らないのであるから・・・・

それ以前に「何が在って」「何が無くなったか」を知らない。



個人情報やプライバシーを「侵害するな」という空気の中で、しかしSNSでは「自己を主張」している。

『自分はこうである』

という「個」を「知ってほしい」と望んでいるからそのように行動する。



『人材派遣』などというビジネスが存続している世界は、いかに人間を蔑ろにする「根っこ」を持っているかということである。

それそのものが「悪」ではない。

それそのものの「使い方」や「根っこにある基準」が問題なのである。



三十年前に自分が語ったことを今一度言おう。


「人材から人財へ」

それが「失った」ものを取り戻すために必要な事だと思う。


完全に人が「材料」として扱われ続けた三十年である。

そして三十年間醸成され続けた「空気」である。


それを「是」と認める他者も自身も含めて、その「空気」を払拭しなければならない。


自分という「個」を認めてほしいなら、まずは他者の「個」というものを認めることである。

「個」とは何か?

それは、人の感情であり、思考であり、信条であり、思想であり、基準であり、癖であり、得手不得手であり、表現方法であり、言葉遣いであり、息づかいであり、趣味嗜好であり、環境であり、人間関係であり、体質であり・・・・・・


それら「不要」とされた情報を掲げて「ただの材料」である自分から抜け出すことである。


「役に立つ」ということは「求めだけに対応する」ことではない。

自分という「役」の舞台に「立つ」ということだ。


自分が演じ切りたい「役」に「立つ」ということ。

「演じる」とは「偽る」ことではない。

「成る」ということ。


そういう「役」に立った時、「厄年」という「役の切り替わり」が起こる年が巡って来るわけで、それは「役替わり」の時期ということであり、その時期が来ても「役替わり」しないままズルズルしていれば「役」が「厄」となる・・・・・ということである。



今はいわば「世界の厄年」なのである。

切り替えねば「厄」となる。


あとは自分がどうしたいか・・・だけである。




天斑駒(アメノフチコマ)は自分の中心軸が無ければ回らない。

自分の意思で回さなければ回らない。

回らなければ「役」とはならず「厄」となる。


自分という他の誰でもない「角」を押したてて、「個」を演じる時である。




癒奏術・響庵

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