『主義』という【神】無き宗教
少し哲学的な話をしよう・・・
民主主義、資本主義、自由主義、共産主義、社会主義、民族主義、帝国主義etc・・・・
およそ「主義」と呼ぶものは、その形態そのものがすでに【宗教】そのもの。
「主」たる「義」を頂点に掲げ、そこに「教義」を設けている時点で、宗教と「何が違う?」ということである。
そこにある「主たる義」は非常に曖昧なものである。
曖昧であるゆえに様々な「義」が配置される。
「義務」「義理」「正義」「信義」「道義」「忠義」「徳義」「不義」
それらを配置して創造された「教義」の「城」は、神を祀る「神殿」と何ら変わりはない。
ただ【神】という人間を超越した存在が「在るか否か」
それだけである。
【神】という存在は、人間世界であるこの世に「カタチ」として存在しない。
それは常に「心の中」に存在するもので、すべからく全ての人に「平等」に存在することになる。
「主義」という【主】は【神】を心の中から排除したものであり、そのかわりに「望むカタチ」を実現するための「寄す処 (よすが)」として、在るようで存在しない「様々な義」に囲われた拝殿に存在するであろう【主】というものを「存在する」というふうに「在らしめている」わけである。
「多数」であることを【主】とする民主主義
「財」と「産」を【主】とする資本主義
「自己」を【主】とする自由主義
「共有」であることを【主】とする共産主義
「平等」であることを【主】とする社会主義
「属性」を【主】とする民族主義
「属性の拡張」を【主】とする帝国主義
「主義」の中心には「崇めるべき対象」があり、それが【主】として君臨しているのである。
そして【主】とは人間の「意」であり「欲」であり「恐れ」であり・・・・
人の心が「欲する」ものを「体系化」したものである。
だがこれを「この世(三次元)」の「平面上」で行うと、【主】は「中心」に位置するのではなく、自然と「頂点」へと押し上げられる。
それは、他の【主】よりも我が【主】を「上に・・・」という思いが自然に湧くからである。
「上」から「覆いかぶさる」ことで他の【主】を「圧倒しよう」とする思いが自然に湧く。
それがいつしか『ピラミッド』という形態を構築することとなる。
つまりは「より強い群れのボス」で在らしめようという「動物的本能」の現われである。
より強い群れのボスが頂点に立つことで、その群れの「主義」が「他の群れ」へと染まりゆく。
そして、他の群れを併合してゆく度に「少しずつ」教義のカタチを変えながら、集団としての【主】の姿も変わりゆく。
だがこれは「無限のループ」に陥るものである。
結局のところ「人間の欲求」が【主】の根源である以上、どんなに「教義」を変えても「同じ」にはならない。
「頂点」を生むピラミッド構造の「群れのボス」が【主】では、「ボス争い」というものは必ず発生する。
ボスが弱くなれば別のボスが台頭し、それら「別のボス」は外部からも身内からも発生する。
根っこが「マウントをとる」ことで存在し得るのであるから、けっして争いは無くならないのである。
そもそも人が「同じ」であるわけはなく、「生存のために都合が良い」というのが「集団」になる理由であり、それ以上でも以下でもない。
本来ならば「気の合う仲間」で群れを作ればいいわけであるが、それが争いを生み、そして「主義」という【主】が登場したわけで、争いを生まないために「主義」をカタチ作る「教義」という【掟】が生まれたのだ。
そして、教義は時代の流れとともに「常に」カタチを変え、より「都合の良い」ものへと作り変えられてゆく。
【言葉は神である】
それは「教義」によって生み出される【神】なのである。
民主主義、資本主義、自由主義、共産主義、社会主義、民族主義、帝国主義etc・・・・
それらは「言葉」という【神】を【主】として拝する【宗教】そのものなのだ。
【神】と実際に繋がる
それが出来るものは限られている
いや、限られていた・・・と今は言っておこう。
【神】というものを「日ノ本」という地から世界へと「教え」るために、各地へと広がっていった。
それを『天の益人』という。
「天」というものがあり、【神】という存在があり、それがいかなるもので、だからどうするのか・・・
それらを教えるために世界へと広がった。
「言葉」を教え、「論理」を教え、「自然」を教え、「神」を教え・・・
様々なことを教えてゆく。
それらが各地で「教え」となり「教義」となっていった。
「自然」の流れに合わせることは「神の意」に合わせることと同義である。
「自然の理」を教え、そこに様々な「摂理」という【神】があることを教える。
だが、「言葉」という「教義」からスタートした彼らは、なかなか【神】に辿り着くことは出来ない。
本来「中心」があってそこから「外側」となる「教義」が作られてゆかなければならないが、「中心」が無いままに「これが中心」と言われても、「中心」が掴めなければ「無い」のと同じことである。
外側から辿って「真ん中」へ行き着こうとするが、それが「真ん中」だといわれても『実感』は無いのである。
なんとか教えようとしたのだろう。
だが、辿り着くために「手段」を歪めてしまったのだろう。
ありがちなことだ。
それを歪めてしまったから、「違うもの」を「中心」としてしまった。
そして、「それで良し」としてしまった。
なんとなく「姿かたち」が整ったようになったのだろう。
そうして【神】を実際に掴めないままに【神】を崇め、「絶対」とすることで「中心」をブラさないようにしたとも言える。
【唯一絶対神】
だがその思想は「群れのボス」的な発想そのままであることに気付かずに・・・・
魔女と呼ばれていた人々は「繋がりやすい」人々であり、彼ら彼女らは【神】というものを「掴んでいた」存在である。
自然の摂理の中に息づく「意思」というものを掴み取り、それを「中心」とすることで真の「唯一絶対」である「摂理」を【神】としていた。
それは「教義」によって生み出された【神】ではなく、自然と自分の「中心」に据えられた【神】であり、そこに「教義」というものは必要ないのである。
だが「教義」が無いゆえに「群れ」というカテゴリーが生まれず、ゆえに「教義」を掲げたより強力な「群れ」に淘汰されて行った。
ということである。
どこから大きく歪んだのであろうか?
「繋がり」を失い「教義」という「抜け殻」を憂いて、ブッダは【神】に繋がり、『繋がる』ということが「中心」で在らねばならぬと言い続けた。
だが人々はやはり「教義」に依存する。
「繋がれない」からである。
だから「こうすれば繋がれる」と言っているのがブッダの「教え」であるが、「教え」ばかりをありがたがる。
そして「掴めない」「繋がれない」ゆえに「教え」を様々な「解釈」で「納得」できるものを模索する。
そんなことをするからブッダはわざわざ「教えは方便でしかない」と言っているのだが、その方便をありがたがることで「中心を得た」という気になろうとする。
「方便」とは「繋がるための方法を言っているのだから、その方法を行え」ということであるが、「行う」もまた「カタチ」ばかりを模倣するだけで終わってしまう。
それほど「掴む」「繋がる」とは難しいものなのだ。
だからといって「模倣」だけで終わってしまっていれば、そこには「真ん中」の無い「側」だけの「教義」が残るばかりである。
どうせ「掴めない」「繋がれない」のならば【神】は無くてもいいじゃないか。
そうして「主義」という【主】の「宗教」が生まれる。
天の益人等の過ち犯しけむ草々の罪事・・・・
それは「摂理」から人が離れて行くという「過ち」を犯してしまったことである。
そして、【神】の存在しない【主】の世界へと至らしめてしまった。
「教義」によって中心である【主体】となる架空の【神】を配置する。
それがやがて【神】すら消え去る【主】となる。
主義主張の争いは「群れのボス」の闘争であり、「より大きなピラミッド」が他を「マウント」するという動物的本能の現われである。
いくら「言葉」を使い「論理」を使えども、その根本は「ケモノ」である。
「教義」という「壁の内側」を「群れ」とする集団の「闘争」は、『バカの壁』に囲まれて突き進むだけの「ケモノ」の争いでしかない。
自然の摂理の中には「けっして同じものなど一つとしてない」のである。
だがそれを「同じ」に染め行く「教義」の闘争は、無限の争いを起こし続け、荒そう混本である生物が無くなるまで繰り広げられる。
違うものを「違う」として認め抱擁し存在させるのが「自然の摂理」なのである。
摂理から外れた過ちから生まれた罪は、大渦となって最後の『祓い』の時間を迎えようとしている。
「混沌」とは「同じでない」ということ。
同じでないものが共存しているから「混沌」としているのである。
そこには「善」と「悪」というものはない。
「在るべくして在る」から「摂理」として「在る」のである。
ひとつの存在を否定すれば、その否定は返ってくる。
その「否定の反射」が「混沌」を『混濁』させているのであり、『混濁』と「混沌」はそもそも『在り方』が違う。
「善」「悪」というのは「同じ」でないものの『否定』である。
それは単なる「見方」であり「解釈」であり、主観の「都合」である。
「同じ」でないものを「同じ」にしようとしない。
それが「調和のとれた混沌」である。
だが、「同じ」でないものを「同じ」にしようとして「違う」ということを「否定」すれば、そこに「恐れ」という感情が生まれ反射として「否定」が湧き、それを受け取りたくないから「返そう」とする。
素戔嗚命が『悪』とされたのは「された」のであって『悪』なのではない。
「同じ」でない、「同じ」にならない・・・・
それを『悪』という「見方」で「否定」したのである。
だから「天の斑駒(巡り)」は「逆剥ぎ(乱れる)」となったわけであり、それは「摂理を狂わせた」ということである。
だから「善悪の知恵の実」を食べた・・・というのは「存在否定」の最初であり「争い」を生む最初である。
素戔嗚命の物語とイブの物語は同じ「摂理」を現わしたものである。
そんな「反射作用」を『引き寄せの法則』などと言い、「見方」を歪めている者がたくさんいる。
否定は更なる否定を生み、それがあちこちで起こり「混沌」は『混濁』した『穢れ』となるのである。
数々の神話や祝詞は「教訓」としての物語を綴り、それを教えているのだが、それすらも履き違え「見方」を変えて「解釈」を変えて、次々に好き勝手な【主】たる【神】を生み出し続けている。
そうなればもはや「繋がる」「掴む」どころではなく、はじめから「繋がる気」などないという【主】という【神】を自分の中に据え置いて、それを崇めて「主義」という言葉で誤魔化し続けているのである。
今、世界は『創世記』の中で生きている。
神が掴めていない創世記の中で・・・・
そして「言葉は神であった」というキリスト教義の中で生きている。
「言葉」の【神】は「主義」の【主】である。
【神】に代わって「主義」という「教義」の上に立つ【主】という【神】
【神】無き宗教戦争が今起こっているのである。
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