人間だけが遅れている




潜像界という霊界に住む「妖(あやかし)」達でさえ、すでに「徳を積み神上がる」という「神」に寄り添い神界を目指すという「組織」を組み上げているのに、人間だけは相変わらず地を這う蟲のように地べたに貼りつくような生き方を続けている。


人間だけが唯一「自然の摂理」の流れに逆らっていると言えよう。



次元の上昇に伴い「潜在意識下」ではすでに14年ほど前から「上昇」という「段上がり」は始まっている。

それに伴い自然界は様々な「浄化」が行われ、地上霊界を治めて来た地祇(くにつがみ)様方も「交代劇」が起こっていた。


だが人間だけはそれらの変化の流れから外れて、過去に執着し続けている。


変化を察知し変化を遂げて来た人もいる。

だがまだまだ少数であり、多くの人々が悪あがきをしている。



自分の潜在意識はわかっているが、それに従おうとしない・・・ということだ。



だが、駄々をこねていられるのは「潜像界」にしか現れていないうちだけである。



明日の七夕を過ぎれば潜像世界の在り方は、現象世界に「具現」を始める。

潜像世界の波に押されて、否応なしに現象化してゆくこととなる。



人が人で在れる世界


霊の世界では「当たり前」であることが、現象世界(現実世界)ではブレーキがかかり、次元の上昇を引き留めている。




現代の科学や技術では、すでに人は「働かなくても」生きて行ける水準にある。

だがそれを阻んでいるのは「争う」心である。

欲への執着や生老病死への恐れを未だに解決できない心が争いを生む。


争うために働き、争うために学び、争うために生きる・・・・

すでに「地獄的想念」の中で生きており、そこから脱却できない。

だからいつまでも欲と恐れのために「働く」ということをやめられない。



人が人と争わず調和し楽しむために「働く」という、一段上がった意識へと上がらなければならないのに、未だに地を這う蟲のように地獄的想念の「箱庭」から出ようとしない。



潜像界ではすでにそれが現出しているのである。

それが現象界に現れるのは必須である。



10年以上も無為に過ごした魂は、変化の具現化の流れの中で、慌て溺れることになる。

否が応でも手放さなければならない変化がやってくる。


それが「喜び」であると知るまで、彼らは抵抗を続けるのだろう。

抗えば抗うほどに苦しくなる。




明日の七夕は具現化する「天の機織り」の始まり・・・

「争う」という心の種となるものを手放して、天の川に流して祓われなされよと、神々は最後の慈悲を投げかける。








ひふみ神示 キの巻 第七帖 

物、自分のものと思ふは天の賊ぞ、皆てんし様の物ざと、クドウ申してあるのにまだ判らんか。行(おこない)出来て口静かにして貰ふと、何事もスラリとゆくぞ、行(ぎょう)が出来ておらんと何かの事が遅れるのざぞ、遅れるだけ苦しむのざぞ。神の国の半分の所にはイヤな事あるぞ、洗濯出来た臣民に元の神がうつりて、サア今ぢゃと云ふとこになりたら、臣民の知らん働きさして悪では出来ん手柄さして、なした結構な事かとビックリ箱あくのざぞ。天と地との親の大神様のミコトでする事ぞ、いくら悪神じたばたしたとて手も出せんぞ、この世 三角にしようと四角にしようと元のこの方等の心のままぞ。後から来た守護神 先になるから、今の役員さうならん様に神示で知らしてあるのざから、よく裏の裏まで読んで肚に入れて、何一つ分らん事ない様にして呉れよ、今に恥づかしい事になるぞ。元の大和魂の誠の身魂揃ふたら、人は沢山なくても この仕組成就するのざと申してあろが、末代動かぬ世の元の礎きづくのざから、キマリつけるのざから、気つけおくぞ。キが元と申してあろがな、上は上の行、中は中、下は下の行ひ、作法あるのざぞ、マゼコゼにしてはならんぞ、この中からキチリキチリと礼儀正しくせよ。



第八帖

今迄して来た事が、成程 天地の神の心にそむいてゐると云ふこと心から分りて、心からお詫びして改心すれば、この先末代身魂をかまうぞ、借銭負うてゐる身魂はこの世にはおいて貰へん事に規則定まったのざぞ、早う皆に知らしてやれよ。タテコワシ、タテナホシ、一度になるぞ、建直しの世直し早うなるも知れんぞ、遅れるでないぞ。建直し急ぐぞ、建直しとは元の世に、神の世に返す事ざぞ、元の世と申しても泥の海ではないのざぞ、中々に大層な事であるのざぞ。上下グレンと申してあることよく肚に入れて呉れよ。




癒奏術・響庵

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