日本人の真ん中にある【⦿(惟神)】




日本人らしい・・・とはどういうことなのか?

日本人とその他の国々の人と「何が」違うのか?


親切であるとか、治安がいいとか、調和するとか・・・・

それらは「現象」という現われであって本質ではない。


日本人が「あぁ日本人だな」と思うところの根底にあるものは何なのか?



『そういえばなんなのだろう?』


見失ったが確かに「在る」ものを照らす。




「明治維新」に至る中で最も「尊王攘夷」を掲げていたのは『毛利家』の家臣たちで、現在の山口県である。

彼ら「毛利家」の人々に「尊王」というものが根深いのには理由がある。


「毛利家」という姓になる以前は「大江家」という姓であった。

「大江」とは現在の「京都府福知山市」にある「大江町」の「大江」であり、その「大江町」とはどのような町であるのか?


京都丹後鉄道の大江駅を降りるとすぐに目に入るのが『鬼』である。


大江町には「大江山」という山がある。

ここはかつて「酒呑童子」が「暗殺」された場所でもある。


平安時代、「鬼の住む山」としての「大江山」に「源頼光」が向かい、酒宴を開いて鬼たちを酔わせたところで「殺戮」していった。

「どこから見るか」という視点で物語は変わる。

源頼光の視点からの物語は「鬼退治」となるが、酒呑童子の視点からの物語は「だまし討ち」である。


その酒呑童子の最後の言葉が『鬼神に横道なきものを・・・』である。


『横道』とは

《人の道にそむく 正しくないこと 邪道 不正と知りながらそれをすること》

ということだ。


『我々、鬼神と言えども人の道に背くことなどしないというのに・・・お前らは・・・・』

それが『鬼神に横道なきものを・・・』という言葉の意味である。



さらに、大江町には『元伊勢皇大神社』の内宮・外宮が存在している。

その「内宮」から『日室ヶ嶽』という「勾玉」のカタチをした『禁足地指定』された山を遥拝する『遥拝所』がある。

その山の奥に「大江山」は位置する。



大江町とはそのような町で、大江家はそんな地域を取り仕切っていた家である。


大江家は「軍事」の専門家で、いわゆる後世の『武士道精神』というものの「精神性」の在り方を示し説いた「大江匡房(おおえまさふさ)」という人物の家系である。


彼は唐国より伝わって来た「孫子」という兵法書を見て、その優れた軍事の「技術指南書」であるとしながらも、『これは日本人にそぐわないもの。これが世に出れば戦乱を招く。』として「お蔵入り」にしてけっして表には出さなかった。


だが、どこから聞きつけたのか「八幡太郎義家」が「孫子を見せてくれ・・・」と言う。

何度断っても引き下がらない・・・・・


大江匡房はやむなく「孫子」を渡すのだが、その時、自らが書した『闘戦経』という書物も一緒に渡し、『この闘戦経を必ず心に留めること』と言明して2つの書を義家に渡した。



また、楠木正成公も大江氏に師事して「孫子」と「闘戦経」を学んだ一人である。




では『闘戦経』という書物には「何が」書かれていたのか?


それは「天地開闢」からの「神」についてであり、そして「惟神」という精神について説かれた書である。


つまりは「惟神」の精神をもって後「孫子」という「手段の書」を読み、その知識を使うように・・・・

ということを「八幡太郎義家」にも「楠木正成公」にも説いたのである。




その「大江家」の精神性が「明治維新」における「尊王」へと続いているわけである。

そして「天皇」という「天地開闢」から連綿と続く「人」という存在、そして「日本」という国の「惟神」の現われが、武士道精神の根底にあるものであり、それこそが「日本人」であると「大江匡房」がしたためた「闘戦経」の『惟神精神』そのものである。



つまり、日本人と外国の人々の「違い」を語る上で、その「根底」にある「精神性」が『惟神』であり、それが精神の真ん中に「無意識的」に備わっているものを大江匡房は「日本人的」であるとしたのである。


「孫子」という兵書は「精神性」において「日本人」とは違う・・・ということである。




結局、孫子という兵書は後年、世に出回り、大江匡房が予言した通り「乱」をもたらしてしまうことになるのだが・・・。





現代の日本を見渡せば、「手段」が正しければ「正義」であるという世になっている。

より良い「手段」を求めて人は知識を得ることを「学び」と言い、合理的、コストパフォーマンスという言葉を正義として突き進んでいる。


それは「日本人」というものからかけ離れた精神性に至っているということでもある。


「合理性」を行うに際し「惟神」という精神に基づいて「実施」しているか?

答えは『否』である。




「惟神」の精神とは常に心の中に「神」があり、心の動きを常に「神が見ている」という精神性である。

そして「神」が望まない、それは「良心」というものが呵責を与えるような行いはしない・・・ということである。


今の日本を見るに・・・・

「惟神」の無い人がたくさんいるではないか・・・

「良心」が『そんなことをしてはいけない』と忠告する人々の国だから、世界一の「安全国」であるのだ。


それを失った時点で、もはや「日本人」であるとは言えない状態なのである。




七夕に願いを込めて・・・・

惟神 魂幸栄えませ




ひふみ神示 磐戸の巻 第十四帖

生味(しょうみ)の、生き通しの神が、生味を見せてやらねばならんことに、何(いず)れはなるのざが、生神の生味ははげしいから、今の内に綺麗に洗濯しておけと申すのざ、皆にまつろひておけと申すのざ。可哀さうなは兵隊さんざぞ、神に祈りてやりて呉れよ。幽界人(がいこくじん)よ、日本の国にゐる幽界魂(がいこくたま)の守護人よ、愈々となりて生神の総活動になりたら、死ぬことも生きることも出来ん苦しみに一時はなるのざから、神から見ればそなた達も子ざから早う神の下にかえりてくれよ、いよいよとなりて来たのざぞ、くどうきづけるぞ。



癒奏術・響庵

心と身体と魂を癒す・・・それが「癒奏術」 肉体から霊体へ、霊体から神体へと手が届く唯一の施術です

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