華厳の道 第一章 『天上天下唯我独尊 第四義』
天上天下唯我独尊ー第四義 波紋~水月の理
心とは「見えない水」のようなもの
心とは「思考」ではない
思考は「水」に起こった「波」に反応して発動する肖像化や言語化によって「波」の意味を明確化しようとする「試み」の連鎖
その連鎖の中で肖像化、言語化されたものから「答え」を『選択』する行為
心の水面にひとつの波が立つ
すると思考が発動する
だが人は思考と共に水面を波立たせる
最初のひとつの波紋より「大きな」波紋を思考によって起こしてしまう
すると今度は「後から起こったより大きな波紋」に焦点が移り、今度はそちらの波紋に連鎖した思考へと移り変わる
せっかくの「気づき」の好機が、思考によって「埋没」するわけである
『気づき』とは最初の「波紋」を見失わないこと
思考によって明確化されなければ明確化しないまま残すこと
無理に明確化しようとすれば、それをしようとした瞬間に『別の波紋』が起こり、最初のひとつの波紋は消える
そして焦点が思考によって次々に起こり続ける『波紋』に連続して転移してゆく
そうすればもはや『最初の波紋』のことは忘れ去り、後から起こり続ける『波紋』を『静める』ための「思考」にいつしか変わっているのである
最初の『ひとつの波紋』は自分が起こしたものではない
池の水面が風に吹かれてさざ波がたつように
木の葉が水面に落ちて揺らぐように
池の魚が飛び跳ねて波立つように
起こるべくして起こる『因』がある
その『因』を知るために『波紋』に焦点を合わせるわけであり
注意深く「静かに」眺めなければならない
それでわかる時もあればわからない時もある
わからない時はわからないままでいい
また今度同じ『波紋』が起こった時にわかるかもしれない
だが人は性急である
無理にわかろうとして
池に踏み入れるから余計な『波紋』が起ち
自分が起こした『波紋』に気を取られ
苛立ちというさらなる『波』を起たせ
その『波』を静めることに思考と行動は変わってゆき
その『波』が静まる思考が
『癖』として確立する
「答え」の見当たらない最初の『ひとつの波紋』が水面に起きるたび
池に足を踏み入れさらに波立たせ
苛立ちというさらなる大きな『波』を起たせて
それを「静める」という一連の『癖』となるわけである
最初の「ひとつの波紋」が起きるたび
苛立ちを「静める」という循環が固定化され
それが『答え』であるという『癖』という偏った習慣が心の「因果律」となって定着するのである
例えば
真夜中、静かな町や公園や林の中を一人で歩いている時に
「カサっ」という微かな音が聞こえたらどうする?
音のほうに向かっていくか?
慌てて走り出すか?
耳を塞ぐか?
人の「反射」というものは、その瞬間動きを止める
そして耳に意識は集中され
つぎに視覚や嗅覚や肌感覚へと移行してゆく
最初の「気づき」は音であり
だから「聴覚」が反射的に「研ぎ澄まされる」のである
そして首をまわして視野を広げ
嗅覚も使い
肌感覚へと神経は移行する
だがそれらは「その場」で『じっとしている』状態で起こっている
冷静なら「その場」でじっとしている状態で可能な限り情報を集める
だが心に「恐れ」が湧き立てば足を動かしてしまう
すると「聴覚」に雑音が混じり
最初の「音」を拾うことができなくなる
だから「そこ」で『知る』という情報収集は終わりを告げる
足を動かして「音」を出したことで最初の「音」の『因』が変化したかもしれない
だから終わる
思考はどうだろうか?
誰かいるのか?
動物か?
虫か?
ただの風か?
危険か?
安全か?
人なら自分に悪意はあるのか?
つけられているのか?
逃げるか?
留まるか?
様々な「思考」が光の速さで展開する
思考の展開は『波紋』を起こし『さざ波』を起たせる
そして思考は『記憶の引き出し』を開けては閉めてを繰り返し展開する
そして『安心』という水面の「静まり」を迎えるまでそれは続く
記憶の引き出しからわざわざ大きな波風を立てる記憶を掘り起こし
その場から「遠ざかる」ことで「静けさ」を取り戻すという結論に至った時
人はその場から「逃げ出す」のである
自分が起こした波風の「強さ」に恐れをなして逃げ出すのである
心が『波立つ』のには必ず『因』がある
『因』が何もなければ水面は『凪』である
その『凪』の水面に起こる「初めの波紋」
そこに『神』や『霊』の【言霊】の波が起こる
それはいつ何時起こるとも知れず
真夜中の森のような時もあれば昼間の賑わいの中の時もある
心の水面が「波立っている」時もある
つねに『凪』の時に起こるわけではない
だがそこには「法則」があり
その「法則」を『知る』ことが「気づき」である
その「法則」を知るには
思考の連鎖で自ら水面を波立たせている自分の行いを知らねば
どれが何の『波紋』かもわからぬままである
自分の心を見るということは
心の水面の『波紋』を見ること
心が「凪いで」いるかを知るには
「月」を写すこと
「月」とは「事象」である
事象を「歪みなく」心の水面に映すこと
「ありのまま」であり「自然」そのままであるという
その「姿」を捉えること
自然さと不自然さの違いすら判らなければ「月」は『真円』とはならない
不自然とはいかにも「不自然」なものである
微かな違和感
微かなズレ
そんな微細な不自然さというものは、凪の水面には不自然と映る
人の心・口・意の不一致は「不自然」な事象として心の凪の水面には映る
違和感として
ズレとして映る
それらは「ありのまま」がどういう姿であり、「自然」がどういう姿であるかということを
知っているから「映る」のである
その「ありのまま」「自然の姿」というものを知るには
自分の「ありのまま」「自然の姿」というものを見つけなければならない
「ありのまま」「自然な姿」とは
心の水面の「揺らぎ」が
「ありのまま」であるか
「自然」であるか
ということである。
水面の揺らぎに
自分が起こしている「波」が無い状態
それが「ありのまま」であり「自然体」である
様々な『因』によって水面は揺れる
だがそこに『自分が起こした波』があれば
それは「不自然」なのである
受想行識
初めのひとつの『波紋』は「受」である
そこに自らの「想」という『波紋』が生まれ
その『波』が「行」を誘発し
その『結果』を「識」する
最初の「受」は『因』
最後の「識」は『果』
それが『因果律』
この連続の流れの中に「濁り」がないか?
「濁り」とは「記憶」の引き出しから掘り起こされたもので起こる『情』
それを混じらせ濁らせる『波』を掃除することが「ありのまま」となる道
「受」とは『火』
「想」とは『水』
「行」とは『風』
火が水に入り風が起こる
それを『命』という
ひふみの理(道)
ありのままの理(道)
ありのままであるから我という水に神の火が入り波風が起こり具現する
その波風を打ち消しているのは、自分が「濁り」によって起こす『波』である
禊祓いとは何であるか?
玉依姫が賀茂の川で禊して火矢を受けて神の御子を孕んだとは何であるか?
神の火矢という『波紋』を「ありのまま」に受想行(火水風)してこの世に具現(事象)させることである
そのために禊祓いをするのである
初めの『ひとつの波紋』の中に【神の波紋】を選び、波を広げて風を起こす(受け取り考え行動する)
神人一致のはじめの一歩である
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