華厳の道 第一章 『天上天下唯我独尊 第六義』
天上天下唯我独尊ー第六義 分離から調和へ
神様が守ってくれる
神様に守られてる
仏さまも守ってくれる
昔の人には無い「認識」「感覚」である。
「願いを聞き届ける」というのはあっても「守ってくれる」という感覚はいつからなのだろうと思う。
そもそも自分を守るのは「自分」しかない。
ということを昔の人は幼少期からの生育過程で「それ」を身につける。
しかるに現代人はどこかしら「保護」を前提とする。
いつからだろうか?
恐らく「自分の人生を生きられなくなった」時からだろう。
人は本来自分を守るために他者も保護する。
そういう「当たり前」が前提にあるものだ。
だがそれが失われたから「拠り所」として「守護」を求める。
宗教の教義の中で「守護」を約束する時
それは「隷属」というものの中に自分が居るのが前提である。
「人同士が助け合わない」
ゆえに「守り」が無い。
助け合わないよう「分断」され、「従わざるを得ない」状況を作り出すことが「隷属」の始めである。
だがその状況に身を置いていることの「認識」が無い。
この状態の人は非常にコントロールし易いわけである。
「褒める」と「叱る」という方法で人は教導する。
だがそれは「弱い子供」という時期のもの。
自分で自分を守れぬ段階のものである。
だから思春期という大人に変化する時に反抗期があるわけで、それはいわゆる「脱皮」であり「羽化」である。
「自分で自分を守る」ということを学んでいない者は、だから「自分で自分を守る」という場合、『自分一人で生きていくことだ』などと勘違いする。
そんな勘違いさえも「隷属」の教導なのかもしれない。
自分を守れる者なら「他者の力を借りて自分を守る」ということも「知恵」であるとわかるが、「自分で自分を守る」ということを学んでこなければ「他者の力を借りるのは甘え」などと解釈する。
そして、自ら「分断」の罠にはまり込む。
「自分で自分を守れる」者は、他者を助ける意識が自然とある。
それは「経験」という学びから得た絶対の真理であるからだ。
他人の力を借りずに一人で生きている者など居ない。
それはもはや「獣」と同じ状態である。
言葉も必要とせず、ただ食らい寝て生きるということ。
人間社会の中で生きている限り、他者の助けは求める以前にそこにある。
だが、「他人の力を借りて自分を守る」ということを「学んでいない」者にとって、目の前にある事実すら『見えない』のである。
そして『見えない』から「自分勝手」になるわけである。
「自分勝手」とは『自分は一人で生きている』という思い込みから来る行動。
そして『迷惑をかけてはいけない』という「恐れ」。
そういった「意識の分離」が『隷属』を強固にする。
誰かを「助け」「助けられ」するのは「無意識」にある本能であり、それは特別なことではない。
川の流れの「一部」であるというだけのこと。
誰かから渡された「水」と、次の誰かに渡し、渡した誰かは次の誰かへ渡す・・・というだけの連鎖である。
特別な「意識」が必要なわけではなく、特別な「意味」も必要ない。
それが「当たり前の巡り」というものであり、だから「自分を守るのは自分である」とわかっている者は、この『連鎖の川』の自分が「一部である」ということを認識しているわけである。
そこから意識が分離してしまった者は、だから人間社会で生きているにも関わらず「自分は誰にも守られない」という思い込みとなる。
そうして、流れの中にありながら「自分は守られない」という孤独を勝手に想像し、「守護される」という意識を最後には『神』に託す。
だが、思い通りにならなければ「神に見放された」という妄想へと飛躍してゆく。
そもそも人と人との横のつながりの「流れ(救い救われ)」も理解できていなければ、神と人の縦の「流れ」も理解できないだろう。
縦の「流れ」も人と人の巡りと同じであり、意識せずとも「流れ」の中にある。
だが意識が「分離」しているから「救われない」「守られたい」という「人同士」の意識そのままとなる。
神と人の「守護」というものは、生きて命がある段階ですでに「助けられ」ているわけで、川の流れから水を「受け取っている」わけである。
その「受け取った」ものを「どこかへ渡す(流す)」ことをしなければ「巡り」とはならないが、自分が受け取っているという認識がないから、誰かに「渡す」などという発想も生まれない。
縦の川・・・つまり「神」からの流れは「魂」に注がれ、本来「自然体」であれば勝手に「行動」へと転化されるものである。
だが人は自分自身でその流れをせき止めている。
ゆえに「神」からも『分離』した状態なのである。
「人」からも守られない、「神」からも守られない。
その「分離意識」が「救い救われ」という人同士の流れの認識を間違い、「神の守護」というものを間違う。
人との巡りの中で、無意識に「救い救われ」しているから生きているわけで、それと同じく神とも「救い救われ」するのが「巡り」というものである。
だから「神に救われたい」のなら「神を救う」ことである。
それは特別なことではない。
「流れのままに」あることだけ。
「神の意」の雫が「魂」に落ち、その雫の「波紋」を広げるだけのこと。
だから「命」があるのだから。
その流れを「塞ぐ」ということは、命そのものを途絶えさせること。
自分自身でそれを塞ぐから、人は恐れ、飢え乾き、あらぬ方からの「誘惑」に迷う。
そんな「流れ」を塞ぐものを昔の人は「岩戸」と呼んだのである。
それらの「流れ」から「分離」しているから「恐れ」「孤独」「飢餓」が生まれ、貪・瞋・痴の三毒が心に湧き立ち、それが漏れ出て人を傷つけ殺めることとなる。
それは「巡り」を失った川が「淀む」ということ。
流れをせき止めているのは自分の意識である。
ゆえに「岩戸閉め」と言う。
そして、その「岩戸」によって「淀み」が生まれ「穢れ」が湧く。
だから「穢れを祓う」というのは「巡りを戻す」ということに他ならない。
それ以外の「祓い」など無いのである。
意識が「分離」しているから「祓い」を間違う。
分離させ淀みを作っている元である「岩戸」を祓う(掃う)のである。
ゆえに「祓い」は「儀式」ではなく「施術」なのである。
身体の巡りが戻れば回帰するように、霊の巡りが戻れば魂は回帰する。
だが「意識」に岩戸がある限り、「淀み」は生まれ続ける。
その「意識」が生まれるのは「記憶」からであり、だから自分自身で「記憶」をリセットしなければならない。
それは『誰か』にしてもらうことは出来ないのである。
自分と他者の「流れ」を知り、生きているということの中に「救い」があることを知らなければ、「岩戸」は開けず「淀み」は生まれ続け「三毒」は湧き続ける。
その巡りを取り戻せば、縦の「流れ」の「岩戸」も開けるだろう。
その時、「分離」した意識は世界と調和して、「隷属の檻」から抜け出すことが出来る。
そしてそれが『天上天下唯我独尊』という状態である。
そうすれば、「神の守護」について間違うこともないだろう。
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