『結界』と『霊道』 ~前回の続き 《淺田友神帳》
この三年の間、私は「結界」というものの中に籠もっていた。
その「結界」とは何なのか?
私自身は「巣ごもり結界」と称しているもので、自分が行動する範囲の限界の境界というものを想定して「置いている」地理的定点である。
「そこから出ない」
出ないことで「出口」はないわけであり、そして「出口」と「入口」は表裏のものである。
だから「入口」が無くなるわけであり、よって「結界」として機能を発動させられるから「巣ごもり結界」と称している。
私の住居は六甲山系の連峰の西側の途中にあり、東の結界の基点が六甲山となる。
六甲山頂の磐座周辺を起点にして、そこから「東」へは行かないことで、東側からの入り口も「無くなる」わけである。
そんな「基点」が東西南北にある。
北の基点となるのは「帝釈山」であり、その山系にある丹生山の社が基点となっている。
南の基点は前回で紹介した「高取山」であり、山上の社が基点となる。
そして、西の基点となるのは「雌岡山(めっこさん)」という「神奈備山」
山上の「神出神社」が基点となる。
この東西南北の「山」が壁となり、「出ない」ことで「入られない」結界を生み出す。
では、そんな「入られない」結界に入ってきて、私を誘導して結界の外へ連れ出した「玉姫狐」は
「どうやって結界内に入ったのか?」
ということだ。
実はこの「巣ごもり結界」に、唯一の裏道のような「霊道」が存在している。
それが「再度山」の『龍の道』である。
私の結界内に「大龍寺」というのがある。
再度山中腹にある空海が創建した寺社で、空海の「航海」を見守ったという『龍』である。
この山の龍が通る道・・・・すなわち風水における「龍道」が「海」へと続いている。
この「霊道」の出口に位置するのが「玉姫狐」の鎮座する場所である。
つまり玉姫狐は「龍道」の出入り口の番人のようなものとなっているわけである。
「管理者特権」
というやつだ。
それで行き来できるわけである。
そして「大龍寺」にも狐たちがいる。
だから彼女はその狐たちに意図を伝えれば、結界内を自由に行動できる狐たちが引き継いで誘導する。
大龍寺からもっと私の住居に近い「稲荷」に伝達すれば、今度はそこの稲荷の地祇が私を誘導する。
そこの稲荷は「狐」ではなく「蛇」であるが・・・
「蛇」は「狐」が案内出来ない「道」を案内出来る。
「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」ではないが、蛇独自の「道案内」というものが存在する。
そして、そこの稲荷の「蛇地祇(へびがみ)」は私の家の神棚にちょこんと居座っているわけである。
これが「玉姫」が結界内に「誘導」を発動した経緯である。
霊道は「縁」によって結ばれ、意図(糸)によって伝達される。
だから私は周辺の「名も無き祠」にまで「縁」を結んできた。
巣ごもりしてはいるが、結界内にびっしりと張り巡らされた「霊道」は、結界を開くことなく外界との連携を可能にしてきた。
だが、先日の「玉姫」の導きは「結界」を解消するものである。
では「解消」しても大丈夫なのか?
およそ2か月ほど前・・・・
結界内でさらに小さな「五芒結界」を創っていた。
「なぜ?」
その理由がわからぬまま「導き」に従って創っていたわけであるが、今回の導きも実は2か月前の五芒結界を創るところから始まっていたわけである。
この「五芒結界」は「巣ごもり結界」とは違う。
出入りを塞ぐものではなく、飛んできた悪意を「相克」するものである。
「塞ぐ」のではなく「巡りを克して変ずる」ためのもの。
この三年ほどの間、地祇たちが大変動をしていた。
神社から「地祇様」が居なくなったり、交代したり、様々な変動が行われていた。
それが落ち着いたところで「巣ごもり結界」を解かれたわけである。
そして、ここ最近周辺のあちこちに出向いて「縁」の結び直しをしていたところであった。
続いている「縁」もあれば、新しく変わったために結び直さなければならない「縁」もある。
そして、結界内の「結び直し」は終わっていた。
おそらくはそれらを「見越して」の玉姫狐の導きである。
まあだから、大量の「飯綱たち」を引き取ったのもちゃんと理由があるのだろう・・・・
・・・・・と思いたい。
この「縁」によって結ばれる「霊道」は、人というものを「基点」とする要素もある。
「生霊」が飛んでくるのはこの「霊道」伝いである。
それは直接「縁」がある者同士だけでなく、間接的にも「霊道」は引かれることになる。
つまり、全く知らない人同士でも「共通の知り合い」が居ればそれが「中継点」となって「霊道」は通る。
例えば、恋する二人の乙女が居て、その二人は全く知らない人同士である。
だが恋しているのが同じ男性であればその男性は「中継点」となる。
そんな見知らぬ二人の女性がその男性の「恋人」であったなら?
何も知らないうちはさして何も起こらない。
だが偶然に「二股」を知ってしまったら?
当人たちをよそに霊界で「喧嘩」が始まる。
それは「女同士の喧嘩」ではなく、「守護的」役割をしている「霊」の喧嘩となる。
喧嘩できるような「対等」なものであれば喧嘩となるが、大方はそうではない。
「守護霊」の性質が左右する。
そして、守護霊の性質は当人の性質にも関与する。
当人たちは一見静かに平穏に過ごしているようでも、心の中がそのまま「霊の行動」となって現れる。
心の中で怒り狂い、見知らぬ相手を「呪って」いれば、霊はそのように行動する。
見知らぬ女性に腹を立てているのなら、見知らぬ女性のところへ飛んでいき、ヤンヤヤンヤと騒ぎ立てたり、男性に腹を立てているなら男性のもとへ守護は文句を言いに行くわけである。
高尚な守護ならば飛んで行って悪態をつくようなことは無く、悪態をつきにわざわざ飛んでいくのは獣のようなれいであったり、淀んだ自身の「生霊」であったり・・・・
そうやって当人たちの知らぬところで事が進んでいたりして、その結果「気持ち」が切り替わってゆくのも守護達の判断がある。
人はいろんなものを守護としてしまっている。
獣や鳥や・・・虫のようなものまで連れている守護もいる。
善人面した人の上で、心の中そのままの守護達がいる。
だから、それが仮面であるかなどはすぐにわかってしまうのである。
このように「霊道」は「縁」と「糸(意図)」によって出来ている。
「龍道」は「龍」の「意志」によって出来ており、「龍」そのものは自然の摂理である天神地祇の「意志」から生まれた彼の世とこの世を跨ぐ「糸(意図)」そのものである。
狐はこの世の人のように「縁」で結ばれ「糸(意図)」を張り、彼の世とこの世の狭間にあって天地自然と人を結ぶ。
彼の世との「縁」とは押しつけではけっして生まれない。
神社に行ってお参りしているから縁がある・・・ではない。
相手の頼みを聞いてやってはじめて「縁」となり、だからこちらの願いも聞いてくれる「持ちつ持たれつ」の関係である。
人間関係と何ら変わらない。
いや、人間のように嘘が通じない分純粋である。
そして義理堅い。
人がいくらきれいに装っていても、霊は「ありのまま」の「思い」が姿として現れる。
人とは基本「霊懸かり」なのである。
そして、その霊の姿と心の姿が一致している。
ところで、今日のお昼前頃・・・・・
目つきの悪い顔が崩れ始めた・・・というような男の霊がやって来た。
悪意むき出しの目でにらみつけてきたので、「誰だ?」と言って圧を跳ね返したら逃げていった。
その後、今度は蟲を抱きかかえた少女がやってきた。
芋虫と毛虫とダンゴムシの混じり合ったような、抱きかかえるほどの大きさの蟲をこちらに差し向けて来た。
これも追い払った。
これらの霊を差し向けた「誰か」はおのずとわかるもの。
「神聖」さを装っていてもこんなものなのである。
人の世の肩書や姿などまったく当てにならない。
心の在り方がそのまんま「格」となる霊の世
そして、そこと重なり始めたこの世
それがミロク(五六七)世の姿であり、そんな世界が示現する「御世出(三四五)」
人世の「格」と霊世の「格」がグレンとひっくり返るのである。
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