『目覚めと共に群がる魔』~六道から抜け出せぬ魂たち 《神人一致の理》



最初に意図していたモノよりだいぶ難しい内容になってしまった。

難しい言葉が出てきますが、わからないところは調べましょうね。

ググるだけですから・・・・


ーーーーー




霊的「目覚め」とは如何なるものか?


それは「霊界に身を置く」ということになる。

この場合の「身を置く」とは「霊体」側に意識を完全に置いている状態となる。

つまりは「霊性の目覚め」であり、「霊界」にも身を置くこととなるわけで、現界と霊界の両界が「接続」された状態で、「肉体」と「霊体」が分離統合する最初の「分離状態」ということになる。


この「霊性の目覚め」が起こると何が起きるのか?


霊界の様々な「霊」たちが寄ってくる。



このように言うと「浮遊霊」や「死霊」なんかが寄ってくると思いがちだが、霊界の「霊」とは様々な存在がある。

守護神とされるものもそうであり、魔とされるものもそうであり、死んで成仏できないものもそうであり、様々な存在があるわけで、そして「目覚め」というものの「性質」によって「寄ってくる」ものが変わってくる。


では、目覚めの性質とは何なのか?


どのような目覚め方をしたのか、何で目覚めたのか、目覚めて何を行うのか、目覚めてどこへ行くのか・・・・



霊が見える・・・・

それは、布団の中で目を開けた・・・という目覚め


声が聞こえる・・・・

それは、意識が覚めた・・・・という目覚め


どちらもまだ「起きて」はいない。



「起きる」とは、起きた先に「何をするか」という目的があり、その目的に向かって「行動する」という「意思」を持った目覚め・・・・

それを「覚醒」という。



霊性を目覚めさせて、では一体「何処へ」向かい、「何を」成すのか?


その意味をまずは「知る」ことが、第一に行うことである。




さて、ここで最初に挙げた「様々な霊が寄ってくる」というところに戻る。


目が覚めて、「はて?」と何もわからない状態のところに、様々な霊が寄ってくるのである。

それが「死霊」だけならいい。

だが、様々なものが寄ってくるのである。



そして「霊」とは「霊体」だけの存在ではない。

自分が「肉体を持っている霊体」なのである。

つまりは「人」そのものも「寄ってくる霊」のひとつということ。


目覚めて、一番たくさん寄ってくる霊は「欲界」に存在する霊である。

肉体を持っている者も、霊体だけの者も、「欲界」から離れられない「霊」が一番多い。

死んで成仏できないのも「欲界」に囚われているからであり、あの世に行っても「欲界」の住人は非常に多い。


目覚めた者の多くは、この「欲界」に引っかかり、その上の「色界」に進めず、「色界」に進んでもそこに囚われれば「無色界」へは至れない。



この「欲界」には仏教で言うところの「八大地獄」や「六欲天」と呼ばれる層に分かれており、そこには「五趣」と呼ばれる「天・人・畜生・餓鬼・地獄」があり、それぞれの層に霊人があるわけで、その中の「誰が」寄ってきているのか?


目覚めたばかりでそれを「見分けなければ」ならない。



さあ、どうやって見分ける?



身近な「守護神」「守護霊」というものが、すべからく「天部」の霊人ではない。

人間臭い霊人もいれば、畜生のような霊人も居り、餓鬼のように常に餓えた霊人も「守護」として人に「憑いている」のである。


守護が「人間臭い霊人」であれば、一向に天へと昇ることは出来ず、餓鬼畜生の如き執着を持っている霊人であれば「堕ちる」ということになる。

それらをきっちりと言い聞かせ、大人しくさせ、場合によっては叱責するだけの意思を示さなければ、彼らに振り回されることになる。

目覚めなければ開かなかった「欲望」が、目覚めたことによって霊人の「欲望」に感応して、欲を増大させる人も多い。


そして、彼らは「繋がった覚醒者」に対して、「欲の口」を開くための「仕掛け」を様々に行い、目覚めた者が自ら「欲界の下層」へと降りてくる算段を行っていたりするわけである。


『引き寄せの法則』


誰があれを書かせたのか?



ブッダに「上へ登る道筋」を説かせたように、「下る道筋」を説かせる者もあるわけである。

本来行くべき道から「外れさせる」ように説かせたものもある。


たとえば、ブッダが説いた道筋は、やがて「上ったことがない」者によって様々な「解釈」が為され、本来上へと続く道が「途中で曲がってしまう」こととなる。



言葉は時に「迷い」を生む。

それを知っていたからブッダは「方便」を説いているに過ぎないと語っていたのであるが、その「方便」という言葉すら勝手に「解釈」を曲げてしまっていたりする。


それは結局「左脳」だけで「言葉」をこねくり回しているからであり、だから「方便でしかない」と言ったのである。

そこには「言葉では到底到達できない」領域であるという意味を含めているのだが、言葉だけでなんとか「理解」しようとするとけっして届かない。

到達してようやく「あぁ、これを説明するのにこういう言葉を使っていたのか」と理解するものであり、その時初めて説かれた言葉が「道しるべ」として成立する瞬間なのである。


「色即是空」を言葉だけでいくらこねくり回して考えても「答え」にはたどり着けない。

その「領域」を垣間見て初めて「あぁ、確かに色即是空だな」と理解するのである。




自分の周りには様々な霊人が常に存在しており、思考の中に「思い」を重ねてくる。

その重ねられた「思い」が如何なるものでどのような意味を持っているのか?

それらをいちいち「審神者(サニワ)」せねばならない。

本当に「うるさい」ほどに彼ら霊人は「語り掛けて」きており、それは「言語」ではなく「思い」であり、だから「思惟(しい)」と言い、それは「恣意(しい)」であり「四魂」の「四意(しい)」でもある。


それら様々な「思惟」を受け取り、心の中で「言語」へと転化し、行動しているのである。

それをブッダは「受・想・行・識」と言っているわけであるが、だがこれは「三蔵法師」が「訳した」言葉である。

自然の現われとしては「受・想・行・色」のほうがわかりやすいだろう。

そのほうが「色即是空」に辿り着きやすいはずである。




だいぶ横道に逸れた・・・・


そもそも「守護神」「守護霊」とは何なのか?

いったい「何を」守護しているのか?

その人の命を?人生を?魂を?

本当にそうか?



欲界にある「天部」の霊人が、何故?どうして?あなたを守るのか?

天部へと上っていて、天部と繋がることで「現世」に天人(天部の霊人)の意思を「具現」するというなら「守護」するであろう。

しかし、欲界の下層にまみれた魂を、いったいどうして天人が手を差し伸べられるのか?

周りに人間臭い霊人ばかりがいて、ともすれば餓鬼畜生に引きずられている魂を、自ら登ってこようとしない魂を、天人が手を差し伸べたところで「取らない」だろう。

それよりも「下層の慾」を与えてくれる霊人を「神」と崇めているのだろうから、けっして「守護」されることなどない。



心ある「守護霊人」が身近に居るなら、なんとか「気付かせよう」として様々な働きかけをする。

そして、その霊人の差し伸べる手を取れたなら、その先の「天部」へと共に上がってゆけるだろう。

だが、その手すら取らないなら、欲界にうごめく霊たちと同じ立ち位置で「目覚め」た状態であり、それは死すれば即その霊界の層に住することとなる。




今まで様々な人を見てきたが、「守護」と位置付けられている存在が、如何に「上る」ことを是としていないか・・・・ということを嫌というほど見て来た。


目覚めることによって「慾」がさらに開き、欲界の霊人が如何に「邪魔」をするかということを見て来た。



ここで書いていることは、人だけでなく「霊人」に対しても書いていることである。

人が読めば霊人にも伝わるからであり、それらを想定して書いている。


欲界の下層へと降るものを忌避するために書いていると言ってもいい。

天人の手を取ろうとしないものを選別するために書いていると言ってもいい。



天人のさらに上に天神が居る。

天神の領域はさらに遠い。

欲望の「重荷」を降ろさなければ、天人の領域の更に上にはとうて登れない。


人は生きている限り「本能の欲」からは離れがたい。

しかし、一時ならば離れることは出来るだろう。

そんな「一時」が多ければ多いほどいい。


肉体を離れ、霊体だけの意識になる。

その「意識」は「意色」であり、肉体の欲の「色」が抜け落ちて、霊体の欲の「色」だけになるということ。

肉体本能から離れた「色(識)」は、『色界』へと上ることが出来る。

天人界層のさらに上である。


そこは「男女一対」の神の層

伊弉諾、伊弉冉の神からの男女一対の神界となる。

その神霊の界にも層がある。

親、子、孫、ひ孫・・・という神の系譜が層となる。


そこまで上昇してはじめて「守護神」と呼べる「神」と『結び』が実現する。

上昇した自我は「菩薩」であり、神は「如来」と言えるもの。

神意が来る宿り木・・・・

色界にまで伸びた菩提樹に神の意が来て「宿る」

つまりは「伸ばした手が届き、差し伸べられた手を取る」という『結び』となるわけである。

そして、神意の泉が宿り、泉から湧き出す神意を「三密」である「身・口・意」の一致(神意を言語化し行動する)したとき、菩薩は如来と転化する。



まがりなりにも『神』と称されるものが「目覚め」を促したなら、そこまで登る「道筋」を伝えているはずである。

だがほとんど手を伸ばさず、手を取れない。

群がる「欲界」の霊人、霊獣に振り回され、それらを押しのけてでも高みを目指す・・・ということが出来ない。



登ろうとする人の魂を、天人のふりをした天狗が曲げ、天人のふりをした狐に化かされ、守護神などと嘯く霊人に引きずられ・・・・・

未だ「肉体欲」から抜け出せない霊人を「神」などと称するから、天狗になり「神」を偽るのである。




神の手で「目覚め」を起こした者ほど「魔」に魅入られる確率が高くなる。

神の領域に手を伸ばそうとする「魔」なのである。

彼らは、時に直接的に、時に「人」を介して心に侵入しようとする。

引きずり降ろそうとする者、こっそり隠れて天界へ入り込もうとする者、天の力をなんとか自分のものにしようとする者、穢れを撒き散らそうとする者・・・様々である。


天人の階層であるはずのところに「魔」が住んでいる。

天人のように振舞い、だから霊人たちは「魔」に影響され、守護も「魔」に影響されている。

今はその「極み」といったところであろう。







一事を専ラにせんすら、本性昧劣の根器、今生に窮め難し。努力學人一事を專らにすべし


永平寺を開いた道元禅師の『正法眼蔵随聞記』の中の一文である。

何を言っているのか・・・・・

生まれつき劣っている素質なのだから、一時専心すべし・・・・

ということだ。



「本性昧劣の根器」

これを

「生まれつき劣っている素質」

という現代訳があった。


昧劣=劣っている


そう訳しているわけであるが・・・・

「本当にそうか?」

どうにも引っかかる。


そこで様々調べてたどり着いたのが「三界」の最上位の「無色界」

その「無色界」には四階層あり、その最高階層を『非想非非想処 』という。



非想非非想処とは

無色界の最高の天。非有想非無想処とも。何物も無しと思惟する定を超えて極めて昧劣な想のみが存在する定。有における天界の最上部であるため、有頂天とも呼ばれる。ーWikiより


『何物も無しと思惟する定を超えて極めて昧劣な想のみが存在する定』



ここでもう一つ道元禅師が残した「学道用心集」というものがあり、そこにも『昧劣』という言葉が出てくる。


そこには

夫れ人、皆な身心あり、作は必ず強弱あり、勇猛と昧劣となり。也は動、也は容。



つまりは「動」「容」の「容」であり「陽」「陰」の「陰」である。



では、最高の到達点は「陰」であるということなのだろうか?


ブッダが辿り着いた最高到達点は間違いなく「陰」であったのだろう。

つまりは「容」であり・・・

それは「受容」されたから「容」なのだ。

なぜなら、到達したブッダの「識」は紛れもなく「動」であり「陽」である。

だから到達点は「容」であり「陰」である。


では到達して「容」となり「陰」なったなら・・・・

発せられる「動」があり「陽」があるはずである。

そこから発せられた「陽」が『帰って来た』のがブッダの『識』であり、それは大宇宙の最奥であり最高位であり中心から放たれた「陽」の「動」の『結果』の一つとしての「到達」なのである。


つまりは「動」の視点からは「容」であり、「容」の視点からは「動」が『最奥に存在する意』となる。




さて・・・・

では『昧劣』とは如何なる意味で道元禅師は語ったのか?


「本性昧劣の根器」


それは般若心経にある「受・想・行・識」にある通り「本性は受」であるということ。

本来の性は「受」だから「容」であり、それが「行」である「動」へと転化するわけである。


だから最高位の到達点も「受・想・行・識」を行っているわけである。

こそ「受・想・行・識」も「受想・行識」とした方がいいだろう。

そうすれば「容・動」と同一のものとなる。


さて・・・・・

この「容・動」という「陰陽」は、鶏と卵のようである。

陰陽陰陽陰陽陰陽陰陽・・・・・

始まりはどちらで終わりは・・・・・


これら陰陽は円環のように巡り、螺旋のように変化を続けるものであり、変化の流れが示現する現象の変化であり、それは終わることなく続く時間の円環である。



そんな螺旋の中ほどと外側、上方と下方の存在が神と人の関係でもあり、神も人も等しく「受想・行識」であり、「本性昧劣の根器(容・受想)」である。


人の意識、思いが「神の根器」まで届かなければ、神は「応えようがない」のである。


なのに、神に思いを馳せず、手を伸ばさず、どうして『守護神』など居ると言えるか?



自分の「欲」に振り回されている限り、応えるのは「欲界」の霊人ばかりである。



せっかく来たのだからと、霊人を言い聞かせ、時に説教し、時に𠮟りつけ、いくら「直霊(なおひ)」を行っても、すぐに欲に振り回されて元に戻る。

祓っても祓っても、清めても浄めても・・・・である。






ひふみ神示 エホバの巻 第十二帖

御神示通りにすれば、神の云ふ事聞けば、神が守るから人民の目からは危ない様に見へるなれど、やがては結構になるのざぞ、疑ふから途中からガラリと変るのざぞ。折角 縁ありて来た人民ぢゃ、神はおかげやりたくてうづうづざぞ、手を出せばすぐとれるのに何故手を出さんのぢゃ、大き器持ちて来んのぢゃ。神示聞きて居ると身魂太るぞ、身魂磨けるぞ。下に居て働けよ、下で土台となれよ。此処は始めて来た人には見当とれん様になってゐるのぢゃ、人の悪口 此の方 聞きとうないぞ、まして神の悪口。



月光の巻 第三十八帖

はじめの喜びは食物ぞ。次は異性ぞ。何れも大きな驚きであろうがな。これは和すことによって起るのぞ。とけ合ふことによって喜びとなるのぢゃ。よろこびは神ぢゃ。和さねば苦となるぞ。かなしみとなるぞ。先づ自分と自分と和合せよと申してあろうが。そこにこそ神の御はたらきあるのぢゃ。ぢゃがこれは外の喜び、肉体のよろこびぞ。元の喜びは霊の食物を食ふことぞ。その大きな喜びを与へてあるのに、何故 手を出さんのぢゃ。その喜び、おどろきを何故に求めんのぢゃ。何故に神示を食べないのか。見るばかりではミにつかんぞ。よく噛みしめて味はひて喜びとせんのぢゃ。喜びが神であるぞ。次には神との交わりぞ。交流ぞ。和ぞ。そこには且って知らざりし おどろきと大歓喜が生れるぞ。神との結婚による絶対の大歓喜あるのぢゃ。神が霊となり花むことなるのぢゃ。人民は花よめとなるのぢゃ。判るであろうが。この花むこはいくら年を経ても花よめを捨てはせぬ。永遠につづく結びぢゃ。結婚ぢゃ。何ものにも比べることの出来ぬおどろきぞ。よろこびぞ。花むこどのが手をさしのべてゐるのに、何故に抱かれんのぢゃ。神は理屈では判らん。夫婦の交わりは説明出来まいがな。神が判っても交わらねば、神ととけ合はねば真理は判らん。なんとした結構なことかと人民びっくりする仕組ぞ。神と交流し結婚した大歓喜は、死を越えた永遠のものぞ。消えざる火の大歓喜ぞ。これがまことの信仰、神は花嫁を求めて御座るぞ。早う神のふところに抱かれて下されよ。




第五十七帖

そなたは失業したから仕事を与えてくれと申してゐるが、仕事がなくなってはおらんぞ。いくらでもあるでないか。何故に手を出さんのぢゃ。そなたはすぐ金にならねば食って行けない、金にならぬ仕事は出来ぬ、自分はよいが妻子が可哀さうだから、などと申してゐるが、どんな仕事でも、その仕事にとけ込まねば、その仕事になり切らねばならんのに、そなたは目の先の慾にとらわれ、慾になり切って、目の色を変えて御座るぞ。それでは仕事にならん。仕事は神が与えたり人が与えてくれるのでないぞ。自分自身が仕事にならねばならん。この道理さへ判れば、失業はないぞ。自分が仕事ぢゃからのう。



 一事を専ラにせんすら、本性昧劣の根器、今生に窮め難し。努力學人一事を專らにすべし


ひたすら仕事になり切ること・・・である






癒奏術・響庵

心と身体と魂を癒す・・・それが「癒奏術」 肉体から霊体へ、霊体から神体へと手が届く唯一の施術です

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