【神結び】~霊統の縦糸結び 《神人一致の理》





神と人との道をつけ、神の領域へ結び付け、道案内する龍を結びつけ・・・

それでも神の御言が現れぬなら、目指す道を外しているのである。


真っすぐ真上を向かなければならないのに、右を見たり左を見たり、後ろを見たり斜めを見たり・・・

向かう先を変えてしまえば、道は外れてしまい、連れてゆく龍は案内も出来ず、いつまでたっても思いが届かず、手が届かず、いくら御言が来たとしても、向いている方向が違うから気付かないのである。


よけいな情報を仕入れて、余計な助言を仕入れて、真っすぐ上を向けなくなり、荷物ばかりが増えてゆく。

身軽にならねば届かない高みの領域であるが、荷物が増えて上昇出来ず、欲に惹かれて道を外す。


寄り道、道草が多すぎて、気付けば自分の居場所さえ見失い、手っ取り早く戻ろうとして、余計に迷ってわからなくなる。

ズレたところから真上を見ても、それが真上かどうかもわからない。

下手をすれば真下を見ていることもある。


迷いは、前後左右に迷うだけでなく、天地の向きさえ迷うのである。




だから、戻るところは一つしかない。

自分の居場所がわかっていた場所。

それは最初の「結び」の場所である。


『初心に帰る』


それを「遠回り」だからと、近道を行こうとしても、自分の居場所がわからぬのにどうして近道などわかるのか?

迷っている途上で近道など出来ないのである。



自分が「迷っている」と認められるものは幸いである。

それは「気付き」であり、気付けばそこから「戻る」ことが出来るから。

だが「迷っている」ことを認められぬ、認めようとせぬならば、もはや戻ることは出来ない。




迷いの道中で余計な荷物が増えるのは、欲に釣られて迷うたからであり、一つ得ては次を求め、また一つ得ては次を求めて横道へと逸れてゆく。

荷物が増えれば上がれる高みはどんどん制限されてゆく。


あれもこれもと知識ばかり求め、求めた分だけ重くなる。

求めるものはただ一つ。

『神の体験』だけである。


いくら知識を求めたところで『体験』せねば『答え』とはならぬ。

誰かの言葉を信じたところで、そこには「確信」は無いのである。


確信が無いからあれこれ求めるのだが、「答え」ばかりを欲しがって「確信」を得ようとしないから、「応え」が返ってくるまで待ちきれず、すぐにしびれを切らして次へ次へと心変わり。


心変わりは心コロコロ転がって、気付けば元居た場所から離れ、自分の居場所がわからなくなる。



三日坊主じゃ何も得られぬ。

『確信』に至るまでには長い月日を要するもの。

ただひたすらに求め続けて、神の偶像をすべて捨てて、神さえ疑う強いまなざしで『応え』が来るまで【昧劣(まいれつ)】となり待ち続けること。

神の極みがそうである如く、我も極みの如くあること。



神の極みまで思いが届けば、それを受けて神は動く。

真っすぐ真下に『霊統(れいとう)』を通り、一二三四五六七八九十(ひふみよいむなやこと)と投げた思いの『応え』は還る。


然るに、神の偶像を抱いていたなら、自分の『霊統』ではない方を向いていることとなる。

どこをどのように通って来るかは、自分の『霊統』次第であるのに、違う『霊統』を見ていたら、よそ見しているのと同じこと。

だからいつまでたっても『応え』に気付かず、よそ見のままに進んで行って、気付けば自分の居場所に迷う。



本性昧劣の根器、今生に窮め難し。努力學人一事を專らにすべし。


昨日書いた道元禅師の言葉であるが、この言葉通りである。


「本性昧劣の根器」とは「赤子の心」

頭の中に、心の中に「ゴミ」のない清浄な心

見たものを見たままに、聞いたものを、嗅いだものを、味わったものを、感じたものを「純粋」に受け取る心


「努力學人」

体験、体感を確と学ぶ人

体験した事実は「在り得ない」などということはなく、確かに「在った」事実は事実として学ぶ心


「一事を專らにすべし」

体験こそが「学び」である事実を専ら(もっぱら)とする心



体験は「色」となる

だがそれはその時その瞬間の色

体験が終われば色は消えゆく

その「色」をいつまでも握ってはならない

手放して再び「昧劣」となる


「空即是色 色即是空」


「昧劣の想」である「空」の心に「想い」が湧いて「色」となり、反応して行動して再び「空」となる。





体験は次なる行動を促すものであり、純粋な反応の行動は天へと還る


心の中に執着があれば、反応は純粋ならず執着に引っ張られて反応自体が歪む

ゆえに

本性昧劣の根器、今生に窮め難し。一事を專らにすべし。

である


鎮まった心で受けて想いが起こり、反応して識(し)る

受・想・行・識

体験という「学び」の連続




人は「体験」の意味を知ろうとするとき、本当に「赤子の心」でその体験を感じ反応しているか?

体験の「意味」を捻じ曲げていたりする。

そこには「執着」が介在しており、だからそれは「歪み」となる。


その時「答え」わからなくともいずれわかる時が来る。

わからないものを無理に納得するために理由をつけると、その瞬間に「迷子」である。


理由付けの執着は左脳に溜まった「ゴミ」である。

そのゴミのために「応え」を「確信」へと変えられなくなるわけで、その「ゴミ」に対してかつては「欲した」ものであったがために、それに対する「執着」から「手放せぬ」からである。





神との結び、龍との結びを行っても、迷い続けるわけである。

神々が手を取ろうとしているのに・・・・

案内の龍がそこにいつでも待機しているのに・・・・


いっこうに「上がろう」としないから、待ちくたびれた龍はほぼほぼ『惰眠』するしかない。

たいがい丸まって眠ってしまっている・・・という状態ばかりである。




一二三四五六七八九十の縦糸の距離

一と十は遠かれど 九と十は目と鼻の先


一を目指して想いを馳せれば、十から九へ 九から八へ

七へ 六へ 五へ 四三二一へと

『霊統』の縦糸を通ってゆく

そして一へとたどり着いた想いは、再び同じ縦糸を通って還ってくる



この糸が歪めば届かず

糸が真っすぐなれば「陰陽」は滞りなく行き来する



かつて「エンジェルカード」を創った「ドリーン・バーチュさん」が「反省」したのはその縦糸を歪めることをしてしまったと悔いたからである。




十が歪めば九も歪み、八を見失い七を見失い、その先まで「想い」は届かない。

届かなければ届いていないところでは「無いこと」なのである。

「無い」ものは「返す」ことが出来ない。

だから「歪み」があればいつまでたっても『応え』が無いのである。




縦糸が歪んで迷子になっている。

そのために「神結び」を行う。

歪んでいない「神」のところまで「道」を通す。

そして、その「道」へと歪みを「回帰」させる。


「神結び」は「縦糸結び」


歪んで迷子の『霊統』を糺すための「道しるべ」となるもの。

十である現世から歪んでいない五や六の「神」と直接「道」で結び、迷子になった七、八、九を「道」へと回帰させるもの

だが、十がすぐに歪んで元も子もなくなる・・・・



努力學人一事を專らにすべし。

これだけであるのだが、これだけを「専ら」に出来ないのである。



どうしたものか・・・・・・・






癒奏術・響庵

心と身体と魂を癒す・・・それが「癒奏術」 肉体から霊体へ、霊体から神体へと手が届く唯一の施術です

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