『言の葉の虫』~神の御言を歪めるもの
若いころから「英語を学ぼう」と思い、自分なりに勉強を試み、習いに行ったこともあった。
しかし、けっして身につくことは無かった。
いくら理解しようとしても、脳内で「弾かれる」ように記憶として定着しない。
まるで脳が「生理的に受け付けない」かのように、いっこうに頭に入って来ない。
まぁこれで自分に「語学の才が無い」のだと納得することが出来た。
そして、10年、20年、30年と経た今は
『学ばなくて・・・いや、学べなくてよかった』
と心から思える。
モノに出来なかったからこそわかるが、「外国語を学ぶと思考パターンが変わってしまう」ということに気付いた。
いや、もっと正確に言うならば「日本語をきちんと理解しないまま外国語を入れてしまうと・・・」と言った方が正しいだろう。
何が違うかというと「思考機序」が違うのである。
それは各国の言語ごとに特有の「言語機序」があり、その機序に則って思考は進む。
そして、いつしか日本語での思考機序までもが変質してしまう。
この「機序」が変わったことに気付けるなら、どちらの思考機序も理解できるだろうが、すでに変質してしまった思考機序で考えているのだから「気付く」ということは難しい。
勉強すればするほどに「外国人思考」に変質してしまうわけであり、だからエリートほど「外国思想」に染まりやすくなってくる。
江戸時代以前の日本人の文学や哲学は理解し難く、外国の文学や哲学の方が理解しやすいのは、すでに「思考機序」が変質してしまっているということである。
思考機序がどのように違うかと言う事は以前ブログに書いた。
今、多くの日本人が同じような「思考限界」を抱えている。
ひふみ神示において『言葉の虫』と記されたものは、この「思考」を変えてしまう「病」の元となるものであり、それによって日本人の「日本人性」というものが失われているのだろう。
言葉による「思考機序の変質」
思考機序の変質による「思考限界」
思考限界による「日本人性の喪失」
「大和魂が失われた」というのは、大和魂を育む環境を生み出す「言語」と「思考」が失われてしまったことによる。
まるで「虫食い」状態の「大和魂」となり、その開いた穴を塞いでいるのが「言葉の虫」である。
型に囚われカタチを「主」とする外国思想が、今の日本人の中心となっている。
それにより「箱庭思想」が主流となり、美しい「箱庭」を維持するため「排除」の論理が横行する。
塀を作り、段差を作り、箱庭を営む思想の中で「大和魂」を叫ぶ者たちは、塀を作り段差を作った上で「日本人以外」を「排除」する。
それを「大和魂」などと呼ぶ。
だが、思想、思考の親和性は外国寄りなため、元来日本人が持っていた「親和性」ではなく、ともすれば日本人以上に「親和の情」を抱くことになる。
そして、その「思考機序」では「神の御言」は受け取れない。
なぜなら、神の御言は日本語の「機序」そのものだからであり、外国語機序が思考にこびり付いた状態では、御言も導きも「受け付けない」状態だからである。
日本の神が外国語の機序で御言を伝えることは無い。
神の御言は「言葉」ではなく「玉(魂)」である。
想いの詰まった「玉」が降りてくる。
その玉を紐解いたとき、きっちりと「日本語機序」で開かないと『意味が歪む』だけなのである。
だから多くの人は歪み迷う。
言葉の虫を自分で見つけて掃除洗濯せねばならない。
言の葉に開いた虫食いの穴をしっかり埋めなければならない。
日本語は、唯一「神」と繋がれる言語である。
それは「機序」によるものであり、真ん中から四方八方に「無限に広がる」ことのできる機序という「理」に則った言葉だからである。
だが、ほとんどの外国語は「無限に広がる」ことは出来ない。
人間の頭で想像できる範囲しか広がれないのである。
その「思考限界」の壁が、箱庭思想を生み、型に囚われ、神を矮小にする原因であり、それこそが「言葉の虫」というものである。
ひふみ神示 五十黙示録 極め之巻 第三帖
わが身をすてて、三千世界に生きて下されよ、わが身をすてると申すことは我(が)をすてること、学をすてることぢゃ、すてると真理がつかめて大層な御用が出来るのであるぞ、それぞれの言葉はあれどミコトは一つぢゃと申してあろうが、ミコトに生きて下されよ。言葉の裏には虫がついてゐるぞ、英語学ぶと英語の虫に、支那語学ぶと支那語の虫に犯されがちぢゃ。判らねばならんし、中々ながら御苦労して下されよ。
大難を小難にすることは出来るのであるが無くすることは出来ん。不足申すと不足の虫が湧くぞ、怒ると怒りの虫ぞ。一生懸命、自分の信じるように、神を小さくして自分で割り切れるように、引きづり降ろして居るなれど、困ったもんぢゃ、長くゆったりとした気持ちで神を求めて下されよ。
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