『大き神を望む』・・・射手座新月・牡牛座天王星
神とは何ぞ?
神の存在は如何に?
神は本当に応えるのか?
神に思いを馳せて望むとき、どんな神の姿を思い浮かべているのだろうか?
神の答えを探すとき、どんな神なら認められるのか?
何か良い出来事をもたらされた時
「君じゃない」
そう突き返すとその者は戸惑い揺れる。
「それが神なのか?」
「そんなものなのか?」
数十億という人が生きる世界で、一人一人の日々の小さな幸運をもたらすものを「神」などと言うのか?
「君じゃない」
そう突き返す。
「君は何だ?神か?」
心の中に応えが還る
『ちがう・・・』と
たぶん守護と言われる霊だろう。
ありがたいがそんなものは求めてはいない。
「もっと上・・・もっと大きな・・・」
そんな小さな「ラッキー」などが必要なくなるように・・・
そんな世界となるように・・・
「君にそれが出来るか?」
『・・・・・・』
「ではもっと上、もっと大きな神とは?」
本当に居るのか?
それはどのようなものか?
どうすれば手が届く?
「では勝負しよう。ここから先、こちらの命が尽きるのが早いか、それとも応えが来るのか早いか・・・」
『・・・・・・』
「導き受け取ったことしかやらない。」
『・・・・・・』
「さあ、始めよう。」
導きがあるたびに
「君は本当に神か?」
「こんなものか?」
そんなことを繰り返す。
生半可な『飴』では認めない。
もっと上、もっと大きな・・・
そんなことを散々続けた1年と少し・・・
時間の経過とともに「奇跡」の色合いが変化する。
より色濃く彩鮮やかなものへと変わってゆく。
それでも
「本物か?」
問うことはやめない。
そうしていると今度は向こうが業を煮やして
『これでもか!』
というほどの奇跡を起こして見せる。
「なんだ?これは・・・!」
「こんなこともあるのか!」
「マジか・・・」
「それでこれはどういう意味だ?」
「あぁ、なるほど。」
「え?本当に?」
奇跡の連鎖は繋がりをもって示される。
『これでもか』
というほどに、否定のしようがないほどに見せつけられる。
それでもけっしてやめてはならない問いかけ
「誰だ?本物か?」
導きを疑いの眼差しをもって確と見る。
奇跡を、疑いの眼差しをもって確と見る。
何度も疑い疑問を晴らし、やがて確信へと変わってゆく。
気を緩めれば上の者たちの気も緩む。
そうなれば導きは「大き神」ではなく「小さき神」のものとなり、もっと緩めば「霊の機嫌取り」となり、はるか高みの神の御言は降りなくなる。
小さき神の幸運と、大き神の奇跡には雲泥の差がある。
小さき神では起こせない、ただの守護では起こせない奇跡。
手を伸ばすことをやめた時、その手は届かなくなる。
12月1日 射手座新月 射手座10度 「金髪の幸運の女神 」
12月1日 牡牛座天王星 牡牛座21度 「開いた本を指す指」
指さしたものが何であれ、女神のチャンスは前髪にしかない。それが女神の幸運への導きならば進んでゆくだけである。
導きの在り方そのものを示す今回の射手座新月
変革を誘う水瓶座の風の始まりは、偶然を奇跡へと転化する自在な自分への改革
大き神の導きは「大河の流れ」に則した導き
すぐに答えなど出ないが、答えが出た時・・・・
その奇跡の大きさに、優しさに、誠実さに驚き感謝するだろう。
だがそれは、手を伸ばして届かせたことへの神々の感謝でもある。
こちらにとっての奇跡は、神々にとっても同じく「奇跡」なのだから・・・・
『ここまで来よったぞ』
神にそう言わせられたら祝着至極であろう。
もっともっと上へ上へと
我が身のまわりの執着を捨てて、高みへ手を伸ばす執着の一念をもって・・・
望んだ終着点へ届けば、祝着至極と相成り候
ひふみ神示 黄金の巻 第六十九帖
悪く云はれるのが結構ぞ。何と云はれても びくつくやうな仕組してないぞ。天晴れ、三千世界のみろくの仕組、天晴れぞ。この先は神の力 戴かんことには、ちっとも先行かれんことになるぞ。行ったと思うてふり返ると、後戻りしてゐたのにアフンぞ。心得なされよ。何も彼も存在許されてゐるものは、それだけの用あるからぞ。近目で見るから、善ぢゃ悪ぢゃと騒ぎ廻るのぞ。大き一神を信ずるまでには、部分的多神から入るのが近道。大きものは一目では判らん。この方 世に落ちての仕組であるから、落して成就する仕組、結構。神様は親、四角張らずに近寄って来て親しんで下されよ。
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