『チャクラ開発の迷走』 ~シヴァとシャクティ




チャクラやクンダリーニについてヨーガの古典には「シヴァとシャクティ」の物語としてちゃんと記されている。

シヴァからシャクティを呼びかける・・・と明確に記されている。



これは日本の神話に於けるイザナギミコトとイザナミミコトの関係と同等のものであり、日本に於いてもイザナギミコトからイザナミミコトへ呼びかける。

そして日本神話では更に「逆」の場合は「ヒルコ」を生むとも記されている。


つまりは「逆」であってはならないということ。




ヨーガに於ける「チャクラの開発」と呼ばれて実践されているものの多くは「下から順に・・・」というふうにチャクラの開発ステップを踏んでいたりする。

第一チャクラから第二、第三・・・・というふうにだんだん上へ上がっていくわけである。


だから・・・

「ヒルコ」を生んでいるわけである。



クンダリーニの蛇は「ヒルコ」と化し、行き場を失った「彷徨えるエネルギー」となり、人の精神を歪めることとなる。

その一つの例が、ヨーガを極めようとしている人が、気が付けば「カニバリズム」などへと曲がっていたりする。

そこまで極端ではなくとも、おかしな方向へエネルギーの使途は曲がってゆく。


だいたい第三チャクラの開発辺りで立ち往生し、下手に溢れて溜まったエネルギーは性的なものへと歪みやすくなる。

もしくは心の在り場所の方へ歪んでゆく。

怒りが増大したり、寂しさが増大したり、欲求が増大したり・・・・


循環を失った人の心身にエネルギーだけが増大すれば、そのエネルギーは循環せず行き場を失い、最終的に「淀み」に溜まる。

まさに「ヒルコ」のような「彷徨うエネルギー」となってしまうわけである。



シヴァが呼び、イザナギミコトが呼ぶのは、「道はこちら」という明確な「行き場」を明示するためである。

ちゃんと「天」の方へ向かうように。





シヴァの座は眉間にある「第三の目」

そこは当然「頭頂」の天の岩戸である第七チャクラが開かれていなければ、「第三の目」とはなり得ない。

なぜなら「天」からの導きを「観ずる目」であり、それを人間レベルの視覚化と言語化という「理」を構築する場所でもあるからだ。


だから左右の目の間にある。

左目はいわゆる「右脳領域」

右目はいわゆる「左脳領域」


左右の脳がしっかりと連携出来ていなければ、そこに「天」からの御言は降りられない。

たとえ降りたとしても意味も解らなければ素通りしてしまうだけである。

右脳によって現実世界を的確に感知し、左脳によって感知した世界を構成、構築できなければ、天から降りてくる「御言」を感知し構成することは出来ない。

「左右の目」「左右の脳」はいわば「真澄の鏡(日月の鏡)」である。

その「鏡」が磨かれていなければ、そもそも「御言」は「御言」として認識されない。


左脳傾倒の現代では「左脳」が生み出した屁理屈が居座るという・・・鏡が「曇った」状態であり、そこに「神の御言」が座るべき「座」は無いのである。


そして、感知も認識も出来ないままクンダリーニの蛇を呼び起こせば、どこへ導けばいいのかもわからず、わからないから「ヒルコ」とならざるを得ない。




シヴァは神である。

つまりは「御言」そのものである。

天からの御言を左右の脳で転化しシャクティへと「呼びかけ」が通る。

シャクティの座は第二チャクラ・・・いわゆる丹田である。


シヴァとシャクティの関係は「火と水」の関係そのものであり、シヴァの「火」をもってシャクティの「水」を沸騰させて上昇気流と為すに似た作用となり、だから上昇出来るわけである。


それを「水」だけ上に持ち上げようとしても持ち上がるものではない。

だから途中で止まる人が多いわけである。




チャクラの下層、第一から第三までは「水」の領域であり、上層の第五から第七までは「火」の領域である。

そして、岩戸が開かれるのは第七が先で、次いで第一となる。

クンダリーニを呼び起こすのは第六が先で、次いで第二となる。

そして、「言」を「事」へと移す「芯」を作り出すのが第五の「言」が先で、次いで第三の「事」となる。

行動を起こす先に言葉があり、言葉に対する腹を括って行動するからである。


では第四チャクラは?

それは天地の岩戸(第七と第一)が開かれた時、天から地へ向かうエネルギーと、地から天へ上るエネルギーが「交わる」場所が第四チャクラであり、心臓の鼓動と共に常に天地のエネルギーが交流する接点となっている。

だがそれは自身の中心軸が定まっている時であり、少し歪めばすぐにズレて接触しなくなる。

いわば「羅針盤」のようにとらえることが出来る。


そして「中心軸」となる心臓である第四チャクラに向かっていくようにチャクラは水を得た華のように、第六、第二、第五、第三という順番で「開花」の時を待つ「つぼみ」へと転化し行く。


そうして真っすぐに歪まず天地が繋がると、次の段階へと進む。





任脈、督脈


いわゆる「経絡」の経脈であり、身体の中心の背面(督脈)と腹面(任脈)を通っている脈である。

人体の背面は「陽」であり、腹面が「陰」であり、エネルギーは「陽」から「陰」へと流れている。

腰部から頭部へ背面を駆け上がる「陽気」は、頭頂を起点に「陰」へと転化し、頭部から腹面を通って下腹部へと流れる。

いわゆる「小周転」という気の流れである。

エネルギーの起点は「仙骨」辺りにあり、終点は「下腹部」の「丹田」となる。


「小周転」と言えばグルグル回っているように思われるが、それはそのような説明がなされているからであり、実際は「起点」があり「終点」がある。


これは「地」のエネルギーを吸い上げて、丹田へと蓄積するような流れ・・・と言ったらわかりやすいか・・・・


第一チャクラの「地引の岩戸」を通ってやって来た地のエネルギーは、背面の「督脈」を駆け上がり、次いで「任脈」を降り下りて丹田に蓄えられる。

それは、組み上げた地下水を浄化、ろ過して後、丹田に蓄える・・・・というふうな感じであろう。

つまりは「水」のエネルギーを「火」で浄化し、清水とならしめて丹に蓄えるというもの。


そうやって蓄えられた「清水」だからこそ、クンダリーニのエネルギーは真っすぐに上昇出来るのだろう。

石油を精製してガソリンやジェット燃料にするようなものかもしれない。

不純物が多ければ燃焼もままならず、不純物も残るというものである。



そして、その後に汲み上げた石油が精製されたジェット燃料となり、丹田に蓄えられた燃料に「シヴァ」が火を放つことで「シャクティ」は「龍」と化し、一気に一直線に「シヴァ」の元へ向かって上昇する。

それは爆発的なエネルギーであり、イザナギとイザナミの最後の御子神である「カグツチ」の如き爆発力をもって駆け上がる。

その時、シャクティは既にシャクティでは無くなり、一つの強大な火龍となっている。

イザナミが雷龍の如き姿に変質したのと同じである。


そして、天に昇って来た「龍」は、イザナギの十拳劔によて斬り割かれ、様々な神が生まれる。

それが五つのチャクラの開花。

それと同時に五臓五腑へとエネルギーの交流が生まれ、全身の経脈へとエネルギーが広がり渡る。

カグツチを斬った劔から滴り落ちた血から生まれた神(血脈)と、カグツチの死体から生まれた神(経脈)が全身全霊へと行き渡る。


神霊身の一致の瞬間である。




つまり「古典」には必ず「火」が先であると記されている。

にもかかわらず、何故に「水」を先にしているのか?


「火」が先であるということは「霊」「身」に於いても「霊(ひ)」が先である。

だが人は常に「身(みず)」が先である。

ゆえに「ヒルコ」となり結実しない。



それは「教え」を伝える者がそもそも「火水」の順の理が『逆さま』だからであろう。

ゆえに「結実」しない「ヒルコ」となる「教え」を説く。

「結実」していないものが「結実」する『道』を説けるはずはないのである。

そして、「ヒルコ」となった自身が新たな「ヒルコ」を生み出すという・・・・

なぜなら「我が身」が先なのであるから。



逆立ちした「教え」を受けて、多くの人も「逆立ち」しているのが現状である。

逆立ちしたまま「上へ上へ」と向かえば、今より「下がる」のは当然のことである。


それでも人は「ヒルコ」を好む。

自身も同じく「身」が先であることに変わりがないからだ。





癒奏術・響庵

心と身体と魂を癒す・・・それが「癒奏術」 肉体から霊体へ、霊体から神体へと手が届く唯一の施術です

0コメント

  • 1000 / 1000