『わかりやすい』の裏側 ~考えない人々の世界




「答え」まで出してもらって導いてくれるものを「わかりやすい」という人の多いこと・・・

そういう人の「わかりやすい」は、「考えなくていい」ということである。

自分で考え自分で「答え」を出さなければならないものは「わかりにくい」ということ。

何も「考えず」に最後に「答え」を『与えてくれる』ものこそ「わかりやすい」ということだ。


いろいろな話を聞いたり文章を読んで「考える」ことを必要とする話より、レールを引くように「導かれる」話や文章、そして最終的に「こうだ」という『答え』まで与えてくれるものこそ「わかりやすい」となる。


物を売るための営業トークや宣伝文句のようなものこそ「わかりやすい」となるのである。



要は「コントロール」してやらないと「わかりやすい」とはならない。

だがそれは「わかりやすい」という言葉は当てはまらない。




いかに日頃「考える」ということをしていないかがよくわかる。


重要なのは「感情の満足」

喜ばせてくれるもの、心地よくさせてくれるもの・・・など。





日頃の自分の中にある黒い淀みを、「善意」で帳消しにしたがる人が居る。

そういう人の「善意」は明確な「悪意」よりも実質『悪質』である。


他人を心配しているようで、要は「善意」を施した「自己満足」によって自分の汚れを浄化しようとしているから、「善意」の中に「汚れた淀み」がある。

自分は「善意」を施している満足感でいっぱいだろうが、実際は「自分の汚れ」を「善意」でくるんで相手に押し付けているだけである。


この悪辣な善意ほど人を嫌な気にさせるものはない。




「考える」ということを放棄してしまった人というのは、『俯瞰』して考えることをしない人のことであり、そういう人の「考える」は自分の「感情」のシコリを解消するために思考し行動する人ということだ。



「心配する」ということは「心を配る」ということであり、「配る」とは「配慮する」ということである。

だが「配慮」することなく「心配している自分」というものを相手に押し付け、自分の「不安」を『解消』しようとするだけの行為であり、それが『解消』されて『安心した』となりたいだけであるのは、自身の思いの『淀み』を誰かに「配っている」という「心配」である。


結局は自分が『安心』したいため、「心配している」という善意で包んだ自分の不安定さを、誰かに解消させるために「善人」を装っているということになる。

そして、自分の心の「黒い淀み」を相手に受け取らせていき、自分の心がスッキリ解消されたなら『自分は善いことをした』という妄想に落ち着く。


心配してやらねばならない相手に「解消」させようというものの、どこに「善意」があるのだろうか?




親が子に対して行い、子が親に対して行い、それが日常化しているから他人へも波及してゆく。

それも当たり前となれば今度は「毒」を吐いても「心配」という善意の衣で包みだす。

そうしていつしか「毒」を吐くことに抵抗は無くなり、「害悪」を撒き散らしていても自分だけは「善意」であると勝手に思っている人が出来上がる。


それは「悪」を「悪」であると認識して行っている者よりも「悪質」であり、だから「害悪」なのである。



自分は「善意」であるからまさかそれで「傷つく」などとは考えられず、「心配」という言葉の後ろに多くの「自分の淀み」を相手に渡していることなども考えられず、自分がスッキリしたのだから相手もスッキリしていると勝手な妄想を抱く。


このように「感情」だけに振り回される人の「わかりやすい」は、「感情」をスッキリさせることだけである。

営業トークや宣伝文句のように、心地よく感情を撫でてゆく言葉、そして心地いい「答え」を与えてくれるというものこそ「わかりやすい」ということだ。



そこには「理屈」などどうでもよく、「心地よさ」こそすべてである。


そして、「心地よさ」を守るために「屁理屈」を捏ねるということに「考える」という頭を使う。

だが、どんなに屁理屈を捏ねても、本心は自分の「心地よさ」を求めていることが溢れ出している。


それがどれほど『気持ち悪い』ものかということを理解できない。


当然である。

心配顔をしながら毒を吐いているのだから・・・・・

善人の装いをしながら悪辣なことをしているのだから・・・・・




「心配」という言葉を使いながら相手の心に配慮しない人々

自分の心にばかり配慮している人々


そこには一切『愛』は無く、ただの「下心」でしかない。



自分の心に沈殿した淀んだ「思い」を『愛』などと呼んでいる人は幼稚な子供と同じであり、虫の手足を千切るように人の心を傷つける。

成りだけ大人の幼稚な子供の世界。


SNSというものであからさまになった「真実の世界」の実体である。



そこには、幼稚な「善意」と「正義」が横行する『自己愛』の世界であり、『承認欲求』を満足させるための世界が広がっている。

それは、人の心の中に淀み溜まった『糞尿』が溢れる世界である。






癒奏術・響庵

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