『革命』という名の【醜悪の渦】 ~八岐大蛇の退治
正しそうなことを言って批判していれば「正義の側」に立てる・・・・
これも『承認欲求』の現われである。
兵庫県で起きたことが見事に全国へと飛び火して『灰汁』を湧きださせている。
「財務省デモ」
兵庫県で起きた醜悪な正義と同じ構図である。
↓ここでも語ったが
小泉純一郎元総理から始まった「劇場型政治」は「善悪の対立構造というわかりやすい劇場型」にすることである。
その「劇場演出」で「財務省を悪」としてきたのが『安倍政権』であり、安倍政権時代に政権内に居た『経済学者』である。
その経済学者は常に「財務省=悪」というレッテルを貼り続けてきたわけである。
先般の兵庫県知事選に於いてはN国党の立花氏の「デマ」を一緒になって拡散させており、経済学者としてあるまじき行いをしている人物である。
安倍政権時代の経済学者と言えば「竹中平蔵氏」と「高橋洋一氏」である。
そして、どちらも「兵庫県知事選」をかき回した人物である。
先日、維新の議員が除名処分を受けたり離党勧告されたりしていたが、それを見れば維新が兵庫県政をかき回していたということが明白である。
維新の顧問は竹中平蔵氏である。
そして、立花氏のデマを拡散していた高橋洋一氏・・・・
どちらも阿部政権時代の経済学者である。
そして安倍政権以来、『財務省=悪』であるというレッテルを貼り続けてきた人物でもある。
兵庫県において『犬笛』を吹かれて「劇場演出」に熱狂した構図と同じように、財務省を取り囲んでいる様は、「犬猫野菜」と言われた斎藤元彦支持者と言われる「カルト信者」と同じく、「財務省悪玉カルト」となって『犬笛』に動かされているというわけである。
今回の「財務省デモ」は「デモナイゼーション」の延長線上にある。
「デモナイゼーション」とは「相手をデーモン化(悪魔化)する演出」である。
Google AI による概要
デモナイゼーション(悪魔化)とは、特定の人や集団を悪者として責め立てることを意味します。
【デモナイゼーションの例】
- コソボ紛争では、セルビアを悪魔化して責め立て、公邸の寝室まで空爆した。
- 旧ユーゴスラビアでは、互いが互いを悪魔化している。
【デモナイゼーションの弊害】
- 反セルビアのイメージがなかなか薄れない。
- 犠牲者意識ナショナリズムが利用される。
- 国際社会では反セルビアの印象がいまだに強い。
そして今回の財務省デモは「犠牲者意識ナショナリズム」が利用されて起こされているものである。
兵庫県知事選挙の選挙期間中、「デモナイゼーション」によって「悪魔化」されていたのは「内部告発者」であった「故・西播磨県民局長」であり、「百条委員会・奥谷委員長」であり、「稲村和美候補」であり、亡くなった「竹内県議」である。
彼らを「悪魔化」することで自分たちは「正義」であるという『醜悪な善意』を湧き立たせ、知事選期間だけ「逃げ切り」を計ったということである。
そして今回も同じ構図であり「財務省」を『悪魔化』して責め立て続けるという『犠牲者意識ナショナリズム』が利用されているわけである。
そして、『犠牲者意識ナショナリズム』を「保守」と呼び、『カルト化』させているのが『犬笛』を吹いている者たちなのである。
未だに「安倍政権」を手放せない者たちが如何なるものであるかがわかるだろう。
「犠牲者意識」と「ナショナリズム」を融合させ「保守」と名乗り、日本を「破壊」しているのである。
それのどこが保守だ?
スピリチュアルに湧いている「カルト」も同じく『犠牲者意識』を内在しており、そこに「スピリチュアリズム」を付随して「承認欲求」へ訴求するという「デモニゼーション」を模した構造である。
「悪魔」との対立軸である「神」や「天使」への依存は、自分が「そちら側」であるという『醜悪な正義』への「承認欲求」なのである。
だから私は躊躇なく『カルト』と呼ぶ。
悪と悪はぶつかり合うし、悪魔と悪魔は喧嘩する。
悪神と悪神も争い殺し合う。
「悪」と対立しているから「善」であるというのは、単なる「解釈」にょる「妄想」でしかない。
もしくは「二元論」での思考に陥っているだけのものである。
二元論に陥るということは、三次元世界から二次元世界へと「落ちている」ということである。
次元上昇と言いながら「二次元思考」へと落ちている人々は多い。
このような人たちと話をしても、なかなか前に進まない。
まるで「指を折って足し算引き算」をしている子供相手に「掛け算割り算」を教えるような労力となる。
つまりは「話すだけ無駄」ということだ。
何が言いたいかというと・・・・
水瓶座の時代であるということ。
そして水瓶座が象徴する「革命」という事象が起きるということ。
水瓶座で起こる革命というのは、山羊座の完成形の「行き詰まり」ゆえに起こる現象である。
行き詰るから・・・・詰まったから破裂する血管のような「現象」である。
革命とは「正義の執行」などではなく、けっして「善」でもない。
見ないようにしてきた醜悪な「灰汁」であり「汚物」であるものが湧き出した現象である。
社会の末端に「引き受けさせ続けてきた」ものを、全ての人に「引き受けさせる」現象である。
それが神話の中で語られる「八岐大蛇」であり、それが現れる『必然性』のある現象である。
それを「正義」とし「善」としているのは、「大蛇の一部」であるということ。
醜悪な汚物の便所掃除をしたのが「八岐大蛇退治」であり、それらを呑み込む水洗が「鳴門の🌀」である。
瀬織津姫がアマテル神の「内宮」へ上がったという『完成形』の後に「八岐大蛇」が発現し、その「灰汁」を身に引き受けて稚姫は死んだ。
そして転生し再生して尚、消え切らない「灰汁」を身に受けて岩長姫として浄化に努め続け、その「悪を引き受けた岩長姫」を隠し続けた。
八岐大蛇と化した真澄姫から生まれた劔の三女神の御子神たち。
スサノオが大蛇の腹を割いて取り出した草薙劔。
草薙劔を「取り出した」というのは、三女神を「神の役の座」に据えたということである。
そこが「革命」の終結である。
なまじ「保守」などと自称する者の醜悪さというのは、「デモニゼーション」という「悪魔的思想」の上に立っているからである。
「犠牲」となっても無理に、人を蹴落としてでも「這い上がらろうとしなかった」自己の中に「良心」の光があったであろうに、見せかけの正義と善を語る「悪魔的誘惑」に負けてしまったということだ。
革命とは「醜悪なる汚物」の噴出現象であり、けっして美化されるようなものではない。
美化されるべきは、その中にあって「良心」を失わなかったものたち。
悪魔的誘惑を退け続けたものたち。
それこそ「劔」である。
ジャンヌダルクは革命の象徴のように「ナポレオン」によって表に出された。
それは「犠牲者意識ナショナリズム」という、人民を「カルト化」するための「象徴」として政治利用された「英雄像」である。
そして「デマゴーグ」によって「大蛇化」した民衆たちによって、断頭台で首を斬られたマリーアントワネット・・・・
歴史から学べぬものを「愚か」というのである。
「灰汁」となって湧き踊り、大蛇となって祓い浄められ十拳劔で斬られるか・・・・
自らを槌打って「劔」となれるか・・・・
八岐のカルトの大蛇とならぬよう・・・・
自身の心を掃除洗濯することである。
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