【御神行(ごしんぎょう)】~神へと繋がるための「行(ぎょう)」
新たな世界の幕開けは、【神意】を実行するものの手によって紡がれる。
それを『お役』という。
神が発する神意・・・
それを受け取り行動することが出来る者たちが、自然と行動することで紡がれてゆく。
だがその前に・・・
人はあまりにも【神】を「間違い」過ぎている。
大きい神ほど微細な神であり、ゆえに三千世界を隈なく照らすことができる。
どこにも居ないようでどこにでも居るのが大き太神というもの。
人の「心の中で」姿を変え、時に慈母のように、時に阿修羅のように変化する姿は、人の心が映した姿・・・
人の心が神を見る「方向」でその姿が変わるだけ。
それが人の「心次第」ということ。
やましさがあれば「修羅」と見え、傷つき痛めば「慈母」と見え、心同じくすれば「友」となる。
そこにあるのは【光】
その【光】をその時々で人は「見方」が変わる。
心次第で「見方」が変わる。
だからあれこれと神の姿があると思う。
しかれど本質は同じ【光】
自分の行いや心の在り方如何では『悪魔』とも見えることだろう。
当然、その反対に『悪魔』と【神】と見ることもあるだろう。
すべては「心次第」の「見方」で変わる。
天照らします大神は、片時も休むことなく人の心を照らしている。
だが人は「見方」を変えている。
心に語りかける『悪魔』の言葉に引き寄せられて、見方を変えている。
言葉とは、【光】を写す『月』である。
『意』を言語化することで「細やかな」動きができる。
『神意』とは【神の光】から受ける【気】という「刺激」であり、その【気】が心身に流れ行き渡り、「我が行動」と為すために『言語化』される『御言』となる。
その『気』の「圧」が押し寄せる。
それが『言霊』
『言霊』は「言葉」に転換するための元となる「言の玉」
【光】から発せられる『気の玉』であり、それが「圧」となり心身に押し寄せる。
その「気の圧」という『言霊』をちゃんと「言葉」に転換できないから「受け取れない」わけである。
イヴが「禁断の果実」を手に取った時、失ったものは【誠】である。
「正直さ」というものを失った。
禁断の果実とは【嘘】のこと。
【嘘】という「甘美」で「都合の良い」『言葉』を紡ぐ別の【光】
それが「蛇の言葉」であり、「蛇の気」であり、「蛇の光」である。
『善悪の樹の実』であるその「果実」は、「善悪」を判断する「果実」
だが「善悪」とは「見方」に過ぎず、「見方」でいくらでも変わるもの。
つまりは「見方を変える」という「果実」であり、見方を変えた「理屈」であり、「神の光も蛇の光も同じく光」であるという「見方」を曲げる【知恵の樹の実】
そうして人は自らの「月(言葉)」に【神の光】ではなく【別の光】を写すことが『当たり前』となった。
月の色
「月(言葉)」が醸し出す「色」を見れば、その者が「何」を写しているかがわかる。
どんなに「見方」を変えようとも、「変えなければ」ならない行いそのものに「色」が現れる。
言葉に、行動に「何」を写しているか?
【誠の光】が何であるか知っている者にとって、それは「隠しようのない」色が現れている。
【神意】の「気」にはそもそも「善悪」などない。
そもそも「善悪」は「見方」に過ぎないのであるから・・・
創造があり、破壊があり、活動があり、停滞があり、温もりがあり、極熱があり、涼しさがあり、極寒があり・・・・
陰と陽の巡りと調和の現われを「善悪」という「見方」を付しただけのもの。
だがその「見方」を曲げて「変える」行為が「蛇の知恵」
そうして人は【光】を直接に「月」に照射され、【神の光】を見失うこととなった。
言葉によって「見方」を変えられ、言葉によって「神はこうである」と別の光を照射され、別の光を当てられ続ける「月」に、【誠の光】がどのような光なのかすでにわからなくなっている。
【誠の光】がどれなのかを知るためには「照射」される「言葉」を排除せねばならぬのに、人は「言葉」に頼るためさらにわからなくなる。
様々な霊
三千世界という様々な世界がある。
無数に広がる霊界
小さな小さな精霊界
現界に近い幽界
様々な「意思」が「実(じつ)」となり、姿を形作る様々な世界。
三次元世界は地球で例えるなら「外皮」となる外側の地上世界。
そこから少し潜れば「幽界」
さらに深くに霊界、精霊界が広がる。
「地底人」などという説はこの「例え」のようなもの。
そして地球の中心に行けば行くほど【神々】の世界(高天ヶ原)となる。
幽界人も霊界人も精霊界人も、神と同じく「気の玉」で語りかけてくる。
だが「禁断の果実」を食べ続けている人にとって「どれが」神なのかわからない。
色(識)が全く違うのだが、その「色別(識別)」などしたことがなければわからない。
だから【行】が必要なのである。
【行】とは「色(識)」を正しく在るがままに「写す」という【行】である。
人は月
「写す」事しかできない。
何で「写す」のか?
それが【五感】である。
【五感】を司るのは「右脳」であり、だから「右脳」で「色別(識別)」しなければならない。
そして、識別したものを「左脳」に渡す。
ゆえに【天照大御神】は「左目」であり、【月読命】は「右目」である。
左脳は光を「読む」という「月」
言語化する「月」である。
だがそれは【光】が「何の光」かということを「右脳」が「色別(識別)」出来ていなければ、「左脳」の「月」は「色別(識別)」なく「言葉」に写すだけとなる。
言霊は受け取り続けるが、「誰の」言霊なのかはわからないまま受け取り続けている・・・・という状況である。
だから「幽界人」の言霊も、「霊界人」の言霊も『色別(識別)』されないまま・・・・
そして「禁断の果実」によって『見方を変える』知恵そのままに「左脳」によって「識別」する。
だから人は間違う。
距離
高天ヶ原からの【光】は微細であり、当たり前すぎてわかりにくいほど「微か」となる。
それは「次元の距離」ゆえであり、次元の距離とは「響きの波長」の乖離の距離である。
だから神々は霊界を中継して送る。
ゆえに「中継地」となる霊界は非常に重要となる。
だがこの霊界人たちも【神の光】を失っている。
「禁断の果実」を食べたからである。
人が霊界と交信出来ないのと同じく、霊界も神界と交信出来ない。
だから神々は「御子」を生む。
【分け御霊】として霊界に御子らの存在がある。
さらに御子らも御子を生み、その御子もまた御子を生む。
そうして【縦糸】で繋がることで、高天ヶ原からの【神意】が中継されながら降りてくる・・・ということだ。
だが、途中の霊界の誰かが「歪む」ことがあれば、通信は途絶えてしまう。
今がまさにその極み・・・なのである。
巫女
「巫女」とは「御子」を『授かる』者
高天ヶ原から受け継がれてきた「御子」という『分け御霊』を『授かる』存在である。
それが【玉依姫】という存在
玉(魂)が「依る(宿る)」ということ。
神の御子の御子の御子と結ばれ、神の御子の御子の御子の御子を宿す。
「宿す」はすなわち「一体となる」ということであり、ゆえに「神の御子の御子の御子の御子」と「成る」ということである。
「フトマニ」で言えば真ん中の「アワ(アウワ)」から外側へ御子たちが広がって、一番外側の三次元へと【八方】に伸びる【縦糸】
「とほかみゑひため」と八つの分け御魂が生まれ、そこから「あいふへをもすし」という八つの分け御魂が生まれ・・・・・
こうして最後に「人」へと宿る。
神話の「神産み」は歴史である。
だがそれは人の歴史の「時間」とは異なる。
人の時間は横に伸びるが、神の時間は「縦」に伸びる。
「時間」の概念そのものが違う。
この「縦の時間」という「縦糸」を『忘れた』のはいつからか?
それが『禁断の果実』である。
縦糸を忘れ横糸の中でのみ人は「世界」を想像し続けている。
だから「神の歴史」を「人の歴史」のように『横糸』に広げてしまい、結果、わけがわからなくなっている。
そして、そこから『縦』に、『上の方』へと伸びあがろうとするから『翼』などが生えてくる。
天使に翼が生え、龍に翼が生え・・・・
「横糸(三次元)」の『縛り』から逃れられない中でもがく。
高天ヶ原に手を伸ばす
神々と親和する前に、まず目の前の「霊人」と親和せよ。
そして「霊人」は更にその上の「霊人」と親和せよ。
さらにその上も・・・・・
神へと手を届かせるためには、途中の霊人の力無くしては適わないのであるから。
そして自らは『月』として、写す【光】をきちんと『色別(識別)』せよ。
誰が、どんな意図のあるものの『言霊』なのか、その「意図」こそが「糸」であり「高天ヶ原」に繋がる『縦糸』であるか否かをしっかりと「色別(識別)」せねばならない。
それを『審神者(サニワ)』という。
それを行うためには「右脳」が磨かれていなければならず、右脳が写した「色(識)」を「言葉」へと写し取る「左脳」も磨かれねばならない。
だからこそ「日本語」が不可欠となる。
色にも香りにも情景にも、様々な「言葉」が日本語にはある。
それは「様々な色別(識別)」した「言葉」を写し取れるということ。
「三千世界」ある様々な「色(識)」を「色分け(識別)」出来るということなのだから。
単調な言葉ばかりを使っているというのなら、それは【月読命】が曇っているということに他ならない。
受け取った言霊の「色別(識別)」が出来ないなら、天照大御神は未だ「岩戸の中」である。
高天ヶ原からの【意図(糸)】を「色別(識別)」出来なければ、高天ヶ原に手は届かない。
縺れた糸を握っていくら引いても、途中の「縺れ」のため高天ヶ原には伝わらない。
途中の「縺れ」とは、途中の中継するはずの霊人の「歪み」である。
それは本来「守護」である霊人の歪み。
「守護」の『意味』が「見方」で歪んでいるから、末端の人も「見方」が歪む。
何せ「歪んだ言霊」が来るのだから・・・・
縺れを解く
この『縺れ』を『解く』のが癒奏術の中に組み込まれた瀬織津姫の『祓い』の技となる。
霊界に入り込み、糸を辿り、または手繰り寄せて「直近の霊人」とまず直面する。
多くの場合、この「直近の霊人」の意向で人は来られている。
それは『縦糸(縦意図)』を直近の霊人が感知したからであり、だからこそその時が最も「縺れを解く」チャンスとなる。
そして、『縦糸(縦意図)』の先へと霊人を案内することとなる。
さらに上の『霊人』と『結び』を強めるということ。
縦糸の「強化」である。
だが、「見方」を歪めることが『常』となっているから、再び「結び」は解かれて縺れ始める。
せっかく掴んだ縦糸を、「横槍」の誘惑に負けて『別の糸』を握りしめる。
元も子もない。
その言葉通り「元」と「子」ではなくなる。
人は「見方を変える」という「都合」のいい知恵を手放さない。
「見方を変える」ということが悪いわけではなく、「使うところ」に『節操がない』ということだ。
さらには「使ったことを忘れる」のである。
これが「歪み」の原因であり「縺れ」の原因となる。
それは「霊人」たちも同じ。
間違った「見方」に固執し過ぎて、だから人も固執している。
その「固執」した霊人を、その上の霊人が「言霊」を一生懸命降ろすのだが、「固執」しているため「色別(識別)」出来ない。
そんな「一つ上の霊人」の苦心の末にここにやってくる人もいる。
そんな時は何をするのか?
固執した霊人を説得したり、時には叱咤するために「修羅」と化す。
そして、見守る霊人は一人ではない。
「主」たる霊人が人に一番影響を与えているから、この「主たる霊人」を入れ替えることもある。
「入れ替える」とは「変わりなさい」と言って「交代」を勧めるということ。
また、主たる霊人が「迷子」になっていることもある。
なぜ「迷子」になるかといえば、人の「想念」が霊人をおかしな「霊界」へと『隔離』していたりするからである。
こういう時、人の心は「地獄的想念」が想起されていたりする。
すると、地獄的想念の霊界の住人が『感化』しやすくなる。
そちらに「近づいている」からである。
当然「守護」の霊人も「近づく」こととなってしまう。
そして『獄』に繋がれるように、その霊界に「隔離」されてしまう。
その後、人は「地獄的想念」の霊界人に感化されやすくなるわけである。
そんな『隔離』された霊人を開放することもあるが、その霊人がその人の守護として「戻ってくる」という保証はない。
その人が「地獄的想念」を想起し続けるなら戻ることはないだろう。
何より大切なのは「月」である自身を『磨く』ということ。
それがなければ「月」は「日」を写せない。
曇った鏡、波立つ湖面が写る姿を歪めるように、ありのままを写せなければ「神意」は常に歪んでいる。
だからこそ【行】が必要なのである。
明鏡止水
以心伝心
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
「言葉」で「見方」を変えず、「感ずる」という「観ずる」が出来なければ、「色別(識別)」さえ出来ない。
これらの「言葉」から「意味」を解読しようなどと「左脳」の「知恵」で行えば、果実を食べさせた「蛇」の思うつぼとなるだろう。
せっかく玄奘三蔵が「言葉を美しく」残した意味も無くなってしまう。
美しく、心地よく。
これは「理解」ではなく「感ずる」もの。
そこに「言葉」を『重ねて』いるのである。
般若心経の中に「日」と「月」が織りなす「色別(識別)」を、きちんと出来てこその「心経」である。
【経】という文字は【縦糸】という意味
そして【筋道】という意味
この「道筋」を与えられながら、【縦糸】としての「日」と「月」の「縦の順」を見失ったまま「横糸」だけで「理解」しようとすれば、それこそ「蛇の知恵」である。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
冒頭に「深く行じ・・・・」と書いてある。
【行】とは?
『観自在菩薩行』
つまり「自在(おのづからあるがまま)」を「観ずる(感ずる)」ことが「菩薩(いつでもできる人)」となる「行(状態を保つこと)」が「深」まり「般若波羅蜜多(あるがまま識別できている)」「時(とき)」
般若心経とは【縦糸】を色別(識別)するための『行の案内書』である。
五感の先へ
五感の極みの先にそれら(三千)の世界が広がっている。
それらは「五感」という「月」に『写る』のである。
だが、五感を忘れ「左脳」の世界にどっぷりと浸かってしまった心には、「日」の光は差さない。
月の世界で生んだ光を月に写しているという「仮想世界」なのである。
左脳は「現実世界」との接点を持たない。
現実世界と接しているのは「感覚」であり、それを写す「右脳」の方である。
その「右脳」が写した「光」を無視して、「見方」を変えられた仮想世界で人の「心」は活動している。
日の光の当たらない薄暗い光の世界で・・・・
岩戸が開けた状態というのは、「縦糸の先」の世界までもが「照らされる」世界である。
人が開くべき「岩戸」があるのは、「五感の極み」の『岬』の海辺
三千世界へ繋がる「大海原」へと続く『岬』
そこへ行くのが【行】である。
般若心経もそんな【行】の一つの案内書である。
「感ずる」ことを忘れたままいくら心経を唱えても、どこにも行けない。
言葉の「情景」を感じきって、先へ、先へ、岬の先端まで・・・・
羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶・・・・
それが【御神行】というものである。
ーーー
牡牛座新月を受けて・・・
今年の七夕に天王星が牡牛座を離れる前に・・・・
ひふみ神示 第二十四巻 黄金の巻第九十一帖
愛の人間は深く、智の人間は広く進むぞ。経(タテ)と緯(ヨコ)であるぞ。二つが織りなされて、結んで弥栄える仕組。経のみでならん。緯のみでならん。この世に生れてはこの世の御用、この世の行せねばならん道理。この世に生れて、この世の行せねば、生れた時より悪くなるぞ。草木より役に立たんものとなるぞ。草木に変へると申してあらう。神が変へるのでない。自分でなり下がるのであるぞ。判りたか。
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