「自分の在り方を生きる」ということを星座ベースで捉えるのもいい
先日から「活動宮」「柔軟宮」「不動宮」という星座の「在り方」というものを書いてきているが、今回もそれにちなんで話をしてみたい。
占星術などで時々言われる「今の時期は〇〇宮の〇星座の人はしんどいでしょう」という言葉をよく見聞きする。
たぶんそれらは「自分の在り方」ではないものに追随、あるいは振り回されるがために起こっていることだろうと思う。
例えば、世の中が大きく忙しく動き出すためのエネルギーが活発になれば、必ず「不動宮の人は今はしんどい時期」となり、その逆に、全く動く気配がない時など、世界が「静まり返った」かのようなエネルギーの時は「活動宮の人たちは今はしんどい時期」などとなるだろう。
たぶんそれらは「一つの基準」のもとで語られていたりするわけで、その時その「基準」となる「〇〇宮」の人たちだけが最も「しんどくない」と判断される。
世の中が何かに向けて一斉に動き出した時、それは「活動宮」にとっての活躍の場であり、柔軟宮、不動宮はその限りではない。
だが世間は「こんなに動いている時にどうして動かないのか?」
と、責め立てるような空気になり、それに対して「あせり」を覚えるから「しんどい」となるわけで、もし自分が「私は活動宮ではないから今は出番ではない」という自覚を持っていれば、何もしんどいことも無ければあせる必要もない。
それよりも、活動宮と一緒になって「わたわた」してしまい、柔軟宮が役割を忘れ、不動宮が役割を忘れてしまったら、活動した結果として起こった歪みや祖語を柔軟宮は埋められず、不動宮が動じてしまえば「修正不可能」な状態へと突き進んでしまう。
戦争の勃発などはおよそそのような経緯で発生する。
要は多くの人の「見方」の問題である。
たった一つの「見方」から見れば、十二もある「宮」のうち「十一宮」はそれに「追随させられている」状況である。
牡羊座と言う火の活動宮のエネルギーが活発だからといって、他の星座の者たちまでが「火の活動」をするべきではないのだから。
火の活動と水・風・土の活動の在り方も違う。
いわんやそれが柔軟宮、不動宮ともなればさらに動きの質が全く違う。
違うものが違うそれへと「成ろう」としても無理があり、「違い」の差異が大きければ大きいほど「しんどい」となる。
どうして無理をして「違う」ものになろうとするのか?
柔軟宮なら「様子」を見ながら「手当て」していけばいい。
手当てができるのは「柔軟宮」だけなのだから。
不動宮なら「動ぜぬ」態度でいればいい。
混乱しても表面の動きに振り回されず、「大丈夫」であると言えるのは「不動宮」だけなのだから。
活動宮なら先の失敗を恐れずとにかく「動けば」いい。
どうせ柔軟宮が歪みを均してくれるし、おさまりがつかなくなっても不動宮が引き戻してくれる。
人それぞれの「役割」というものがあり、それが「得意」であるもので役割をこなせばいいだけである。
だが、活動宮の人は「活動」に見方の軸を置き、柔軟宮、不動宮もそれぞれ自身の見方に「軸」を置いて、それを何故か「統一」させようとするから齟齬が出る。
すべては「循環」しているというのに・・・・である。
地上で風が吹き荒れれば、やがて雲が出来てくる。
それが雨を呼び、やがて晴れ上がる。
そうして差異なくならされた空間に、新たな気圧が生まれ、それが再び地上に風を起こし・・・・と循環してゆく。
活動宮の前には不動宮の見えない「動き」があり、不動宮の見えない動きの前には柔軟宮のバランスをとる「動き」があり、柔軟宮がバランスをとる前には活動宮の活発な動きがあり・・・・
それらは「循環」によって「動き」の連鎖となっているのであるから。
もし「自分の在り方」というものがわからず彷徨っているなら、自分の星に聞いてみるのもいいだろう。
自分は火・水・土・風のどれか?
さらに活動・柔軟・不動のどれか?
それを知るだけでもわたわたせず慌てない自分というものが見えてくるだろうと思う。
世の中の流れの中で「自分がしんどいなぁ」と思ったら、自分のそもそもの「在り方」を見直すいい機会である。
そんな時はきっと「自分らしくない」違うものになろうとしている自分が見つかるはずである。
誰かになろうとする前に、自分で在ろうとしなければならない。
そうして自分が自分で在る時、「役割」というものを最も体現できる時である。
『同じ』になろうとする、『同じ』で在ろうとする呪縛から抜け出すことである。
それが出来れば他者に対して『同じ』でないことにいら立つことも無く、『同じ』にしようとすることも無く、歪みも淀みも「循環」の中で浄化される巡りとなる。
同じものしか無ければ循環はせず調和もない。
違うから循環し調和するのである。
『同一性』の空気を醸し出している自分
『同一性』の空気に怯える自分
「同じ」になろうとするから「同じ」にさせようとするのである。
いわば「自分が蒔いた種を自分が刈り取らされている」ということである。
自ら「歪み」を生めば、その「歪み」は自分に返り、自分を「歪ませる」力となる。
他者への押しつけは、そのまま自身への押しつけの脅迫となるだけなのだから。
そして、その押しつけの脅迫の「恐れ」から逃れるために、再び他者への押しつけをする。
押しつけが堂々巡りする「負の循環」となるばかりなのだ。
天上天下唯我独尊
それは「自身の在り方を尊ぶ」ということである。
自分を尊べれば他者も尊べる。
それは「違い」を尊ぶこと。
ただし「違う」のそれは「天邪鬼(あまのじゃく)」であってはならないが・・・・・
自分の役割というものを、誇りをもって生きることである。
その「役割」は、自分の在り方に自分自身が合致したときに現れる。
在り方を整え役割に溶け込む・・・・
それが新たな時代の生き方の「軸」である。
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