【神】という「自浄作用」~神を忘れた穢れの世界
【神】と【祓い】は切っても切れないもので、それは「神が祓う」という前に、「神を思い自ら祓う」という「自浄作用」を促すものである。
昔の人々が「道徳」というものを大事にしたのは、「神」と同じく人自らが「自浄作用」を起こすために「日常」のあらゆる場面で「道徳的振る舞い」というものを溶け込ませていった。
【神道】というも自体が「日常に神を溶け込ませて自浄作用を促す」という【道】であり、だから宗教のような「教義」ではないのである。
日本は「習合」する国と言われるが、それは時代時代に、また場所場所に適した【道】となる日常に溶け込ませる上で都合が良いから・・・ということである。
老師の道徳を習合し、仏教の道の教えを習合し、時にキリスト教の教えの何がしかを習合してきたのはその時その場所で「適当」であるからそれらの「言葉」を引用してきたということである。
その根本にあるのは【神道】という【自浄の道】であり、時代に適合した言葉として様々なものが習合されてきたということである。
だがこの【道】という「自浄作用」が近年蔑ろになり、自分で自分の「穢れ」を「道の教え」によって「浄化」出来ない人が増え、だから自分の穢れを他人に吐きだし、ただただ「自分のテリトリーだけ綺麗に」という「他を省みない」振る舞いが激しくなっている。
他者に吐きだした穢れは、吐きだされた他者も当然「浄化」は出来ず、また別の他者に投げ捨てる。
穢れを投げ捨て他人を汚すことを「正義」と呼び、自分は常に「穢れない人」という。
自分で穢れを湧かせておきながら、湧いた穢れを他者へ擦り付ける。
そうやって穢れは増え続けていくのである。
他責思考
常に自分は悪くない、自分は正しい、相手が悪い、相手が間違い・・・・
「自浄作用」を失った『他責思考』というものの心の根本には【神】という「穢れを祓う」ための「事情を促す装置」が無いのである。
他責思考だらけの世界で、だれが穢れを浄化しているのか?
穢れを「下に下に」と垂れ流し続け、気付けば自分の足元は「穢れ」で溢れ、穢れに半ば浸かりながら、まだ『他責思考』を続ける。
そんな中で「天地グレン」と返った世界はどのような世界か?
自浄作用を失った人々が、自ら放った穢れの澱に落ちてゆく。
「自浄作用」を取り戻すまで、穢れの海に浸る日々となる。
「下に下に」垂れ流された「穢れ」を祓う役目を負わされていた人々は、天地が返り穢れの海から引き上げられる。
「自浄」ということを出来る出来ないは、他人を騙しても神は騙せない。
いずれ人も騙せなくなる。
どんない理屈を貼り付けても、無いものは無いとわかる世界・・・
すでにそれは現出している。
心に【神】の在る無しは「自浄作用」の在る無しである。
穢れを祓うを【神】という「他責」に望んでいる限り、浄玻璃の鏡には「穢れた姿」が写し出される。
心という「神の神殿」を「祓い浄める」のは人の役目。
それがなければ心に【神】は現れない。
穢れを「善し」とする「何者か」の住処となるだけである。
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