生霊とは?
「生霊」とは「思い」の「念」によって潜像界に現れる「生きている人の霊」なのであるが、それはそのままその人の『霊の姿』でもある。
人の身体は「思い」によって長い時間をかけて変化するものであるが、霊は「思い」がそのまま反映される。
つまりは『心の姿』の具現化である。
次元上昇によりこの世と彼の世の感覚は狭まり、それをなぜかスピリチュアルでは「思いが実現するのが早い」などと言っているが、『思い(心)が即、(姿に)現れる』のが早いというほうが確かである。
そこを「確か」にしないから、「解釈」がどんどんねじ曲がってゆく。
身体という姿に重なって現れている「生霊」は、全く別の姿・・・・
などということが「すぐに」わかるわけである。
身体の姿は心の姿に引き寄せられていき、その「変化」の時間も早くなる。
天王星が双子座に入った七夕以前と以降で、『こんなにも示現するのが早くなるか・・・』というほどに明確に早くなっている。
だが当の本人はわかっていないだろう。
そのように『生霊』とは『生きている誰もが生霊である』というものだ。
生霊は肉体と違い「瞬時」に空間を移動する。
地球の裏側の人に強く思いを馳せたなら、瞬時に「生霊」は思いを馳せた人のところへ到達する。
それを「守護」と呼ばれるものが守るのだが、この時代、守り切れないな・・・と思う。
守り切れなければどうなるか?
「同化」してゆくこととなる。
この2~3年の間、癒奏術の施術に於いて『守護の強化』というものを行ってきた。
「強化」と言っても「力を分け与える」などという魔法など無い。
「守護」となっている霊と接触して、教え導き、時に説教し、時に「替える」ということをする。
だが、そのたびに人は心を穢し、穢れたものへと同化し行く。
そんなイタチごっこを繰り返している。
だが、そんな中で『抜け出す』人もいるわけで、徐々に『守護』が高度になってゆき、そして『増えて』ゆくことで『守り』が増える。
だがそれは、「守護」する者たちが『守りたい』と思えなければ実現されない。
それを実現させるのは「人次第」なのである。
私が施術で行うのは「結び」であり「教示」である。
だがそれを「実践」するのはその人なのである。
自ら穢れを祓うということは、それ即ち「守護を守る」という行為となり、それは「穢れ」にまとわりつかれない状況を生み出すから、守護は守護としての役目を遂行しやすい・・・・ということだ。
心に穢れがしょっちゅう沸き立っていれば、穢れたものがしょっちゅう寄ってくるわけであり、「守護」はそこに忙殺されて「人」など見ている暇もない。
それほどに「沸き立っている」のが現在という次元が上昇(重なり)した世界である。
要は「守護の手が回らない」状況を人自らが生み出しているということだ。
他責思考が当然となった現代人は、何かと自分以外のもののせいにして、自分以外のものが変わればいいと思う。
けっして自分を変えようとしない・・・ということだ。
それが「縦糸」という『霊統』を途切れさせ、歪ませる原因となり、自らの心を「神殿」と出来ぬから「神」が心に現れない。
だが「何者か」は現れる。
次元が重なる世界では、それが起こりやすくなっているわけである。
『心次第』
心次第で自分という「生霊」の存在の在り方が姿となり、そこに類似したものが「類は友を呼ぶ」原理で寄ってくる。
そうなると「守護」はだんだん手を出しようがなくなってくるわけだ。
「霊懸かり」が湧いているのもそのような理由からである。
『救うものが救われる』
その「摂理」の示現がどんどん早くなってくる。
風の時代に「重い思い」を胸にシコリのように持っていれば、風に乗れなくなる。
生霊の姿そのものが「重い」ということを具現してしまうからだ。
そして、それは今後、益々早くなり、そして色濃くなってゆく。
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