『鳴門の大渦』~八岐大蛇が誘う大渦




前回の記事や「ぽたりす」の動画でも語っている『地走り(ジバシリ)』という生霊の妖霊であるが、これは「個人的」なものだけではなく、もっと組織的、国家的な様相を呈するものである。



個人に取り憑く『蛇霊』の『地走り』は、共同体などの「組織」に寄り憑く「集合体」となれば、それは『大蛇(おろち)』というものになり、世界の国々を席巻するほどの大規模な「集合意識」となれば、それは『八岐大蛇(ヤマタノオロチ)』という世界を喰らいつくすほどの巨大な「意識体」へと変化してゆく。


そうして世界は今まさに『八岐大蛇』に呑み込まれているという状況が現出しているのである。



これが「鳴門の経綸」として語られている現象であり、『大蛇』の「意識体」が渦巻いて、人々を呑み込んで沈めてゆくわけである。




この蛇霊の生霊に取り憑かれているということは、やがて波長は「同調」して自らも「蛇霊」の生霊を生み出す存在となる。

それは初めは無意識の変化として現れるが、その時に気付ければ引き返せるのだが、「大蛇」となった習合意識の流れに呑み込まれて同調を強めていけば、自らも『地走り』の生霊を生み出す「大蛇の一部」と化して、『鳴門の経綸』の【沈む渦】の流れの一部となってゆく。



まわりの多くの人々が進む方向とは「真逆の方向」へと進むことが出来るのか?


コロナ禍で試された「予行演習」に於いて、学習出来たかどうかが今後の「難局」を「大難」にするのか「小難」に出来るのかという分水嶺となるだろう。


コロナ禍が始まった時、私はさんざんに何度も「予行が始まった」と語ってきた。

そして「ワクチン」という自身の身体に直接影響するかもしれないものを「身体に入れるか否か」という【選択】を迫った。


そこで自分が行った行動の選択についてちゃんと「理解」したかどうか・・・が、この数年間で試されたわけである。



では、今度「身体に入れないもの」に関して、何らかの選択の時が来たならば、「予行」の反省も含めてどのような【選択】を自分がするのか?

という事態が起こった時、同じような間違いは起こらないか?ということ。


同じケースならば選択しやすいだろうが、「ケース」が変わった時にちゃんと【理解】をしたものとしていないものでは「選択」が違ってくる。


そうして再び「大蛇」の一部となる人々とならずにいられるかどうか?



「身体に入れる」ものの選択よりもあきらかにハードルの低い「選択肢」である場合、さてどちらに選択の意思が流れて行くのか・・・・

その選択肢が「沈む渦」ではないとちゃんと理解できるのか・・・・




本番はとっくに始まっている。

大蛇の渦は「八岐(いくつも)」あるわけで、けっして一つではない。


それらの「鳴門の渦」に巻き込まれずに渡る船となれるか・・・・・



「三分残ればいいほうだ」

それが預言である。






癒奏術・響庵

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