『世界の岩戸が開かれる時』 みろく示現の大元の岩戸
人の歴史は飽きもせず、堂々巡りを繰り返す
室町時代末期ごろから「西洋人」が日本に表れ、「宣教師」というキリスト教の牧師たちが「布教」という名の「浸食」を試みた。
「浸食」というのは「染め上げる」ということで、それは「基準」というものを自分たちの方へと「矯正」するためである。
そこには「宗教」という「神」を必要とする。
それは、人のDNAに刻まれたものであり、その「中心軸」を「浸食者」のそれに「染め上げる」ということ。
その地の人が「神」としていたものを、キリスト教という「神」へと『置き換える』ことである。
だが、はじめから「神道」というものが歴として存在し、さらには「仏教」も広まり「宗教」というものがいかなるものかを熟知している日本人にとって、キリスト教が来ても「あぁ、別の国の宗教が来たんだな」というだけのことである。
一部地域で浸透はしても、それも「利害関係」というものに留まり、貿易や軍事の取引の「便宜」にしかならなかった。
占領も浸食も出来ない日本と、小さな貿易をしたところでうま味も無く、そのうち「奴隷貿易」を始めるようになり、それに乗っかった大名もいるわけである。
だがそれは豊臣秀吉によって防がれて、キリスト教の宣教師も追い出されるという結果に終わった。
その後、彼らスペイン人は浸食が成功していた「明国」に日本を攻めるように指図し、そうして秀吉の「朝鮮出兵」が始まった。
朝鮮半島を通り抜け、明国を睨み続けたわけである。
そんなスペインの「最後っ屁」は、イギリス軍にスペインの「無敵艦隊」が破れるという結末をもって終結したわけである。
今の日本を見ていると、当時と何も変わらないことがわかる。
高尚なだけのSDGsの布教活動が世界を回っており、それが浸食して各国では「奴隷貿易」が盛んになり、その宗教をもって浸食し続けている。
そして日本にも来ているわけであるが、日本はやはり他国より反応が早いわけである。
キリスト教が浸透しなかったのと同じく、SDGsも日本では浸透するわけがないのである。
それは、歴史と文化・文明と言語の重厚さゆえである。
歴史、文明、言語ともそれぞれに日本より「足りない」者が創造したもので、日本人を「囲い込む」ことなど出来ないのだから。
言っている意味がわかるだろうか?
自分より小さなものは囲い込めるが、自分より大きなものは囲い込めないという単純きわまりない理(ことわり)である。
これがわかるなら、「エリート」ほど「囲い込まれる」ということがよくわかることだろう。
昔のエリートではなく「現代エリート」という意味である。
「勉強」という教育過程ですでに「囲いの中」こそ世界であると意識に浸透した頭では、その「壁の外」は「無い」ものなのである。
現代の教育から脱落した者を「頭が悪い」という「基準値」を流布して洗脳しているから気付けないかもしれないが、現代のエリート教育から離脱した者たちというのは、「壁の外の世界」というものを逆に「知っている」からである。
知っていて尚「壁の中」へとエリートになるために自ら没入していった者もあるだろう。
そんな「選択」をする時期が「思春期」などに訪れる。
秀吉の時代、切支丹の宣教師も植民地侵略も押しのけたが、第二次大戦で敗戦した日本は「押しのけられなかった」わけである。
だから「キリシタン的」な教育や思想が日本に蔓延し、それに追従することで植民地支配者に「認められる」という構図が出来上がり、よって「エリート」というものは「壁の中」にしか『存在してはいけない』ものとされ、壁の外に出る者を「劣等種」とする「基準値」を設けて流布したものである。
だが、それでも重厚な歴史と文明と言語は囲いきれず、囲えなかった「劣等種」とされる者たちがDNAに受け継がれている歴史と文明と言語の重厚さが発動されて、かつて切支丹が追い出されたように、「そぐわない」ものを追い出そうとしているのが今である。
日本は「言霊幸わう国」と言われるが、それは重厚な歴史と文明によって培われたものである。
何万年という「文明」の重厚さが言語の中に浸透しており、だから歴史の浅い国の言葉で作られた「何もの」も「覆いきれない」大きさを持っている。
言い方を変えれば、外国から攻めてくる「言語」という数百、数千の軍隊が襲ってきても、日本の言語は「数万」の軍隊があり、さらには軍種も多彩で到底攻めきれないわけである。
そんなところに端から「侵略」など不可能であるということだ。
様々な「八百万の神々」が幸わう国に、数千、数万の神々が押し寄せてきたところで、結果は見えている・・・・というわけである。
攻めてきたところで、気付けば「取り込まれている」ということになってしまうわけである。
それをこの国では「習合」と言っているが、それが出来るのはおそらく日本だけであろう。
何せ「八百万」の軍団がいるわけであるから・・・・
その意味がわかるだろうか?
神話に、出雲に降り立った「天穂日命」が、気付けば「出雲」に取り込まれていた・・・・という。
「習合」されていた・・・ということだ。
新しい神が古い神を「支配」することなど出来ない。
新しい神とは、古い神の「子」であり「孫」であり「ひ孫」であり・・・・・
大元の神の「分魂・分霊」であってみれば、当然その大きさが違うわけである。
それと全く同じ「理(ことわり)」
言葉も、言霊も、文明も、歴史も・・・・・
『大元はどちらであるか?』
ということである。
キリスト教は所詮「ウガヤフキアエズ朝」の型写しである。
そんなもので日本を侵食出来るわけはない。
仏教も日本の神の教えが元である。
だから神道を侵食しきれなかった。
世界中のどのような宗教が日本に来ても、それに変わることは無い。
「視点の違い」というふうに認識され、習合されるだけである。
文明も同じである。
日本では「日本的」になり「習合」されるしかないのである。
SDGsやLGBTという新興宗教も、日本では「そんな価値観もあるよね」という「習合」をされるしかない。
そして、日本にそぐわないものははねられて排除され、残ったものだけ習合される・・・・という道を辿る。
「差別だ!排外主義だ!」と罵る「壁の中」の人々は、言うなれば「宣教師」が「神だ!善だ!」と自分たちの価値観を流布しているに過ぎないのである。
それは「思考限界の壁」「認知限界の壁」の『外側』を「知らない」者たちの言葉に過ぎない。
大元の「神の教え」を間違った理解をして、それを「宗教」というカタチにしたものを、大元の国に持ってきても「無駄」であるのと同様に、SDGsもLGBTも、どんなに言葉を尽くして形作ったとしても、言語数の圧倒的に多い国を「囲いきれる壁」とはならないのである。
つまりは「言語数」による「認知限界」というものの「大きさ」が違うわけであるから、言語数が少ない国の人の「意識」と、言語数が多い国の人の「意識」の『広大さ』がそもそも『違う』のだということである。
だから、外国人が「意識できない」領域を日本人は「意識できる」わけである。
その「意識」の違い、意識の「広さの違い」がそもそも『在る』のだということである。
「言霊幸わう国」
「八百万の神々幸わう国」
その意味がわかっただろうか?
日本人と外国人の「限界値」の差は「龍」と「ドラゴン」に象徴される。
「羽根」が生えていないと「理解」できないという「限界値」が外国人にはあるということ。
天使にも、時には神にも「羽根」が生えているのが外国の認知限界なのである。
その根底にあるのは「言語」であり「文明」であり「歴史」である。
では、その「溝」を埋めるものは何か?
それは、最も古く、最も多様で、最も大きい「言語」「文明」「歴史」の共有である。
数万年という長きにわたって続いている人類の歴史、文明、言語というものを根本に共有し、そのうえで世界が個を謳歌することである。
「同じ」にするのではなく「認識の共有」をするということである。
だから日本が中心にならねばならない。
それは、最も古く、最も多彩で、最も大きいからだ。
だがその事実を日本そのものが蓋をしている。
「岩戸締め」である。
たかだか2700年ほどの歴史の重石で「蓋」をしているわけである。
その「岩戸」を開いて解放した時、ようやく世界は一平にまとまり始めることが出来るのである。
それが、混沌を経て安定し行く「みろく世界」の在り方となってゆくだろう。
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