「西宮と北宮」 ~ヤマトタケルの暗殺行から仏魔の岩戸締めまで
ヤマトタケルの時代
その時代に「卑弥呼」は「魏国」へ赴いた。
その魏国の記録から「卑弥呼」は倭国の「三十国」を束ねる女王であることが記されている。
三十国とは九州に点在する中小の国々。
それらの「頭領」としての「巫女(皇女)」であり、そして統治の要として「川上タケル」が将軍として君臨していた。
「邪馬台国」と魏書にあるのは、統治していたいわゆる「政庁都市」であり、どうやらそれは「ヤマダ国」と読む。
「ヤマト」と思っていたが、どうやら当時の音読では「ヤマダ」になるとのことである。
だが「ヤマダ」という国ではなく「政庁所在地」が「ヤマダ」であり、そこを中心に九州の中小国三十をまとめていたとされる。
現・福岡の朝倉山田地域
九州の地は太古より「西宮(さいぐう)」とされ、ホツマツタヱなどでは「カナサキ」や「ムナカタ」「ウサ」というところにも都市があったことがわかる。
そして、魏志倭人伝の頃の卑弥呼は、現在の福岡の「朝倉」という地に政庁を構えていた・・・と魏書には記されている。
「ヒミコ」というのは「太陽神(日)の御言を降ろす巫女」のことであり、太古より続く「天照大御神」の「代理者」としての「ヒミコ」である。
そして、統治者は「素戔嗚命」から続く「大物主(将軍)」であり、その将軍を「川上タケル」と言った。
*五十猛など
女性の巫女と男性の統治者
女系男権の「ウガヤフキアエズ朝」そのものの国の在り方である。
まるで「合衆国」のような姿である。
だが違うのは「意思決定」を「人」が行わない事。
あくまでも「神」に聞いて、その御言をもって統治していたわけである。
そこに、奈良の樫原で勃興し、大和地域を掌握し、版図を拡げている国があった。
その国は「ウガヤフキアエズ朝」の「巫女と統治者」の分権がされていない「男系男権」の国・・・・
神に尋ねることをやめて、人の意思によって統治をする国が勃興した。
それが現在の「ヤマト朝廷」である。
奈良の中心地である「ヤマト」を奪取した彼らは「ヤマト」の名で版図を拡げていった。
その過程で「ヒミコ」の時代、子供時代のヤマトタケルが「西宮」に「客」として訪れ、「川上タケル」が寝ているところを暗殺し、自ら「タケル」を名乗るようになった。
ヤマトタケルという人物は、ある意味「サイコパス」要素を持っている。
自分の「兄」を殺害し、父である天皇から恐れられ、終生「戦場」に出されていたことからもわかる。
身近に置けば「いつ自分が殺されるかわからない」
そんな危険人物であった。
「川上タケル」がいくら「将軍」であったからといって、彼一人を殺害しても九州三十国はなびくわけもない。
新たな将軍を据えるだけのことである。
だが「痛手」にはなるだろう。
ヤマトタケルは「川上タケル」を暗殺した後、すぐさま今度は「北宮(出雲)」へ向かった。
現在の北陸地方である。
そこでも「西宮」で行ったのと同じように、北宮の統治者であった将軍「出雲タケル」を暗殺する。
これも川上タケルの時と同じように「だまし討ち」である。
その後、彼は「軍」を率いて各地を転戦してゆくのだが、結局のところ「西宮(九州)」も「北宮(出雲)」も落とせてはいない。
ヤマトタケルの後の仲哀天皇や神功皇后の時代になっても「(西宮)九州討伐」は完了していない。
それを成し得たのは更に3~400年後となる。
ちょうど「大化の改新」の頃である。
その時代、ヤマトの「斉明天皇(女性天皇)」が朝倉の地に赴き、卑弥呼の神宮(政庁)の建物を分解し、その資材で自身の館を建造した。
そして神宮を小さな神社にして山の方へ移した。
だが、その館で暮らしていた斉明天皇とその従者たちは、雷に打たれ館の火事で、また後に病で全員亡くなったという。
その時代の「ヤマト朝廷」の版図はどれくらいだっただろうか?
まだまだすべてを掌握するには至ってはいなかっただろう。
そこから100年経った「坂上田村麻呂」の時代でもまだ「東へ版図を拡げる」活動をしている。
大化の改新より「仏教」が主体となる中、各地の「神域(神宮・神社)」は仏教によって浸食されていった。
「神」の詔(みことのり)によって行動する人々の「神」の部分を破壊していったわけである。
そしてそこに「寺院」を築き、仏教僧は「僧兵化」してゆき、かつての「神の軍」に対し「仏の軍」として「習合」という名の「上書き」がされてゆく。
「神」を塞ぐことにより「神」の力を削ぎ、変わって「バラモンの神」の化身である菩薩・明王によって「神」の『この世への関わり』を塞いでいった。
*だがバラモンの神も元は日本の神の変化であるのだが。
ブッダ自身もモーゼと同じく「気多」もしくは「皇大神宮(富山)」に赴き、神道を学んでいたと「竹内文書」には記されていたという。
この時代の「学ぶ」とは「修する」ということ。
神霊と交信する術(すべ)を修するわけである。
また、余談ではあるが「ホツマツタヱ(秀真伝)」や「ミカサフミ」が書かれたのも「ヤマトタケル」の時代であったという。
「ホツマツタヱ」は物部氏が「竹内文書」を参考にして記されたとのことである。
記紀や上ツ文にしても同様である。
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