善と悪と中行く道




善というのも悪と言うのもいわゆる「価値観の偏り」である。

価値観とは軸足を置いている立ち位置から見たものであり、価値とは個人的な「思い」である。


ゆえに善悪に正しさなどはない。

あるのは「善さ」か「悪しさ」というこれも価値観である。



中道を歩くということは、善に偏らず悪に偏らず・・・

価値観の足場に偏らず、自身の思いに偏らず・・・・


どこにも「偏らない」のが中道


それは『禅』そのものと言える。



だが「偏らず」に生きることは出来ず、軸足の立ち位置はどこかに置かねばならないわけであり、だからそれが「偏り」であると認識していることが「中道」であり、意識は中道にありながら「偏り」を生きるということ。


でなければ「生」そのものが「空」でしかなくなり、人生は空虚なものでしかなくなるからである。


中道とは「空」

偏りは「実」


空であることと実であることが同居しているから「変化」し得るわけであり、「空」だけでも「実」だけでも「変化」は無い。

空無き実は「居つき」となり、変化成長を失ったただの「物」として、やがて朽ちていくだけである。


中道が「空」であるゆえに「偏り」は「便宜」となり、居つくことから解放される。

つまり、その時々の便宜上の「偏り」である。

寒ければ厚着をし、暑ければ薄着になるのと同じこと。


されど人は心の寒暖に鈍感であり、ゆえに「居つき」によって病うわけである。

寒いのに薄着のままで風邪をひき、暑いのに厚着のままでのぼせ干上がる。


春は花、夏ほととぎす、秋は、月冬雪さえて、冷しかりけり


季節が巡るごとく状況は巡り、心の中の思いも巡る。

それらの「巡り」に順応して変化してゆくのが「中道」であり、その都度「偏り」を変転してゆくということ。


その時々の「最善」であれ

ということである。



善悪は、その時々で、巡るもの、巡りと和すが、中行く道ぞ



善に居付けば、巡りてやがてそれは悪となる。

つまりは「最善」ではなく「最悪」となるということである。


悪も季節が巡れば善となる。

最悪が最善となる時が巡って来るということ。



中行く道は善悪の真ん中ではない。

「最善」を目指す道である。

だがその最善も時と場所と状況と・・・様々な要因で最善ではなくなる。

ゆえにその時々の「最善」を探して進む「道」が「中行く道」というもの。


偏り居付いた「善」を尊ぶ道ではない。



いにしえの善悪というものは「偏り居付いた道」である。

大昔という時に偏った「軸足」に居付いた「教え」であり、それはけっして「中道」などではない。


「中道」とは「季節によって衣替え」する如く、時々によって「最善」を着替えていく如きもの。



「善」に囚われ偏り居付けば、巡りて最悪となる時が来る。

その時「善」は「悪善」となり、「病み」をもたらす災厄となる。


ゆえに「中道」という「巡りの真ん中の空」に在りながら、春夏秋冬巡る季節の何れかに立ち位置を移動し「最善」を巡らせ続けることが「最善」なのである。



「空」は動かず「実」は巡る


それが⦿

「・(空)」と「〇(実)」


空(・)は柱

実(〇)には善悪


御三体の神、三柱の神の理(ことわり)である。






癒奏術・響庵

心と身体と魂を癒す・・・それが「癒奏術」 肉体から霊体へ、霊体から神体へと手が届く唯一の施術です

0コメント

  • 1000 / 1000