『夢の特訓』~スパルタな瀬織津姫神 《淺田友神帳》



このお方は『友神(ゆうじん)』ではなく『親』なのですが、便宜上『友神帳』に連ねておきます。




最近・・・・

夢見が非常にしんどい。 疲れる。


夢の中で『特訓』されているのである。


瀬織津姫さまには相変わらず厳しい指導をされる。

まぁそれが「神の手」となることでああるのだが・・・・・





新しい【神人一致】のための施術

それをするための「特訓」である。



まったく「イレギュラー」な事であり、だから「模索」しながらの「特訓」となっており、だから余計に疲れることになる。




『ここまで曇りが酷いとは・・・・』

それが上の方々の今の思い。


『曇り』を晴らすための「掃除」をする【修祓】の施術であるが、「自分が曇っている」と気付かなければ「曇りを晴らそうとしない」わけで、「曇っている」ことに気付けないくらいに「曇ってしまっている」のである。

恐らく「曇りって何?」

ということだろう。




『神が降りる余地』が無ければ神は降りられない。

神が降りられなければ『神など居ない』世界となる。


それが見えてしまっているから・・・・




元々、私の【龍人和合】の施術は、非常に簡単なものであった。

私が「意図」せずとも【龍】のほうが勝手に【和合】しに向かっていたのである。

だがそれは「限られた人」であることに後々気付くのだが・・・・

【和合】させようとしても「出来ない人」が居る。

むしろその方が多い。


だからわざわざ「次元の上の方」に魂を引き上げてからやらなければならなくなった。



人の準備が出来ていれば、【龍】たちは喜んで「勝手に」向かうのである。

だが、2019年をピークに人々の意識は下がり続けている。

それは「安定」の『底が抜けた』からであり、安定によって「安心」していた心が「揺れて迷い出して」いるからでもある。


「不安」があるということは、心の真ん中に「恐れ」を置いていることであり、その「恐れ」に至らないために・・・・と思い思考し行動する。


本来「真ん中」になければならない心の軸が「恐れ」の側に『ズレている』のである。



「恐れないように」「不安にならないように」と考える時、心の真ん中に「恐れ」がある・・・と思い込むのだが、実際は「真ん中」が「恐れの側」に『ズレている』のである。




突然、大きな地震が起これば「恐れる」のは当然である。

だがそれは「揺れている間」だけでいい。

恐ろしいのは「揺れ」であり、「揺れ」が止まったなら「恐れ」は無い。

だが人は「恐れ」に留まる。

それは、「ちゃんと何が恐ろしいかを検証しない」からで、その「恐れの根源」となっているものを排すれば、恐れに留まることは無くなる。



春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり


何度も引用している道元禅師の詩である。



冬が来て「凍える」ことを「恐れる」人がどれほど居るだろうか?

それは「冬の対処」がわかっているからである。


もし「極寒」が来れば最初は恐ろしいが、次の年には「恐れ」は消えていることだろう。

それは「対処」出来るようになっているから。


もし「冬」を知らない赤道直下の人が、北の方で「冬」を迎えたなら、それは「恐ろしい」と思うだろう。

だが次の年からは「冬は寒いものだ」ということが認識できているから対処も出来る。

だから毎年毎年同じ時期に「恐ろしい」などと思うことは無い。


これが『中行く道』というもの。

春は花・・・・の詩の通りである。




「恐れ」に留まれば心は滞留し、「恐れ」は沈殿して「下心」となり、常に心の下層に「貼りついている」状態となる。

この状態に留まれば、次に湧く「思い」は『怒り』となる。

恐れを払拭するために怒りを発動することとなる。


その「怒り」をもって「恐れ」から脱するならそれでいい。

だが、恐れに囚われた者は「恐れ」と「怒り」を行ったり来たりし始める。


また、脱して「安堵」を得たとしても、今度はその「安堵」が失われる「哀しみ」に抵抗し、「安堵」に『留まろう』とする。



冬から脱して春を謳歌することなく急いで「夏」へ向かい、今度は「夏」に留まろうとするのである。




ここ(夏)に大勢の人が「留まろう」としているのが現在である。



本当の「収穫」は「秋」なのであるが、「収穫すると無くなる」という思いが湧き、「実り」を眺める「夏」に留まり、だが「実り」を目の前にして「収穫」の慾が湧く。

今度は「夏」と「秋」を行ったり来たり・・・・心の中でふらふらすることとなる。



そしてまた「冬」が来る。

来るものは来る。





「変わらない」と思い込んでいたものが変わりはじめ、人々の意識は下がっていった。

そして今なお、下がり続けている。



「変わらない」ことから脱しようとしていた人さえ、実際に変わりはじめると「変わらない」ことを求めだす。

人の本能に備わる『防衛機制』が発動しているのである。



だがそれを自らコントロールしなければならない。

それが「人」というものであり、全霊長類の長たる務めである。


にもかかわらず毎回慌てるのは「獣」と同じである。




【神】は「獣」には降臨できない。

【龍】も「獣」には和合しない。

獣に従する神も龍も居ないのである。





祓っても、祓っても、すぐに曇る人の心・・・・

心の軸が「真ん中」に居なければ神は降臨出来ない。


心の周り、感情をグルグル回るのは斑駒、佐男鹿の獣である。

その獣を従えるのが「中道」であり「真ん中心」の「愛」である。



感情に振り回されフラフラしている心に「聞し召せ」というのが祓いの祝詞の言葉。

上ずった心に引きずられ、気が上がり、身体の重心も上がり安定しない。

体の不安定がさらに心の不安定をもたらす。


だから施術が必要であり、だから【修祓】という「施術」を身体と魂に施す。



それで「落ちつけた」としても、すぐにまた心は上ずり、気が上がり、重心が上がり心身は定まらなくなる。

「祓っても、祓っても・・・」という状態である。




それに見かねて『新しい施術』をするということだが、けっこう手間なのである。


『せめて守護が降りられるだけの隙間を作るように・・・・』


などという注文なのである。



拭いても拭いてもすぐに曇る鏡に「曇らない部分」を作れというのだ。



そして、その方法として『型写し』というものの特訓をしている。

夢の中で・・・・

目覚める瞬間まで・・・・


要は『隙間』となる『型』を『写す』ということを夢の中でやらされている。

従来の「人の型」に「守護が入る隙間」の「型」が初めからある「人の型」を『写す』ということである。


ほんの一割ほどの空間・・・

そこが「守護の座」となるようにするという・・・・・・

わけがわからないがなんとなく理解はできる。




神が人に降臨したはいいが、人が「獣」となれば神自身も「獣」の穢れを受ける。

だから「ブレない」という確証が得られるまで神は降臨しない。

その証となるのが「霊身」の覚醒である。


だがそこに辿り着くまでに「曇らない」状態を保たなければならず、それが出来ないから神は手すら出せない状態で「焦れている」わけである。


だから、そうなっても「穢れ」が入り込まない特別な空間を作るということだ。



大きい神なら「一割」では到底足りない。

全身全霊で迎えなければ、到底迎えきれないのである。

だが守護ならそこから入り込める・・・・ということだ。


守護が入り込み、「曇り」が起こらないように、導きを直接に与え続ける。

横から「魔」が入り込み、心が曇るたびに、守護は忙しく働くこととなるだろう。




【多々羅】までの【厳瑞劔(いづのめ)】の施術を受けた人は、伊勢の女神の御魂を受けた「巫女」がすでに「結び」の守護として繋ぎを取ってくれている。


だが【多々羅】は期間限定のものであり、もはやできない。

それが出来るようになるまで待つこともできないのである。


それほど切迫しているということだ。




【修祓】で祓い『型写し』するという・・・・

まだ「出来る」とは言い切れない状態であるが、やらなければならないのだろう。



癒奏術・響庵

心と身体と魂を癒す・・・それが「癒奏術」 肉体から霊体へ、霊体から神体へと手が届く唯一の施術です

0コメント

  • 1000 / 1000