『神を動かすブッダの智慧』 ~神人和合の菩提薩埵
巷の「ヨガ」というのは、どうしてあのように「もったいない」ことをしてしまっているんだろう・・・と常々思う。
けっして悪くはない。
しかし「良い」とまではいかない。
先人たちが残した様々なピースで組み上げられた「ヨガ」ではるが、所々で「抜け落ちている」ピースがある。
おそらくそれらは「残すまでもない」言葉なのだろう。
だから「実践」の中で『自ずとわかる』ようなものだ。
だがそれは「確かめる」という意思と行為そのものが必要となる。
そして、確かめて掴んだことを理解し信頼するという評価も必要となる。
思うに・・・
自己評価が低いのだろう。
つまりは「自分で掴んだ」ものよりも「教えられた」ものを重んずるというのは、自己評価の低さの現われである。
だから、自分で答えを得ようとするよりも、教えを忠実にこなすことのほうが評価が高いわけである。
だから初めから自分で答えを得ようなどとしない・・・・
天上天下唯我独尊の「真逆」の精神である。
「確かめる」ということはとても大切な事だ。
確かめもせずにそれが「真実」だとしているということは、「仮想世界」に居るということであり、「真実」どころか「現実」にさえ足がついていないのだ。
ブッダは「ヨガ」の真髄を伝えている。
そして「神」の真実を伝えている。
そして、「神人和合」の真髄を伝えている。
日月神示に「神の動くが仏」と語っている通り、ブッダはそれを示している。
それが『菩薩』であり『菩提薩埵』という【神人和合】の姿である。
多くの人が勘違いしているが、「ブッダは仏教徒」などではない。
彼は「バラモン教」の中で「神」を追った人である。
これも日月神示の「仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて」ということに当たる。
「神が動くが仏」
それを日月神示では「十(かみ)が動くが卍(ほとけ)」としている。
では卍(ほとけ)とは?
「仏」というものを誰か確かめた人が居るだろうか?
死んだ人か?
明王や如来のことか?
ブッダが一切使ったことも無い「仏」という言葉・・・・
ブッダは「悟り」にあるものを評して常々「バラモン」であると語っている。
「バラモン」とは『祭祀』
『神の言葉を聞く者』である。
仏教の伝来でブッダからも「神」が排除された・・・・わけである。
仏教によって「見方を変えられた」ということだ。
まさに「岩戸閉め」である。
つまり、「菩薩(菩提薩埵)」とは「祭祀」の状態であり、それは『玉依姫』という「神を宿した」状態である。
そして、そこへ至るための「ヨガ(ヨーガ)」である。
『神を宿す』
それがヨガの目的
その(神を宿す)ための『器作り』というものだ。
以前から何度も語っているが、「チャクラ」というものは『同時発動』するものだ。
「ひとつづつ・・・」などそもそも『理(ことわり)』から外れているのである。
ヨガによる「活性」で「活性化」されるチャクラは「全て」なのであるから。
それをわざわざ「他のチャクラ」の活性を「止めて」『一つに集中する』という、おかしなことをやっている。
そんなことをするから『連動性』が失われ、活性しかけたチャクラは、しぼんでゆくこととなる。
筋肉を使い、呼吸を使い、血液を動かし、水を動かし、身体全体の「巡り」を活性化させているのに、どうして「ひとつのチャクラ」だけが活性するというのか?
ヨガというのは「自らの意思」で身体を活性化させるもの。
そして、自らの意思で動かせる「筋」と「呼吸」を使い、全身に「気・血・水」を巡らせて身体を活性化させる。
その「活性」に伴い「チャクラ」も同時に「活性」させるのである。
「筋」と「呼吸」で『火』を起こし
「血」と「水」を「全身」に巡らせる
「十(神)」が動き「卍(仏)」となるための『器』を作るのである。
チャクラが「開花」しなければ、神が宿る「器」が無い。
それが神の「受け皿」だからだ。
ヨガで筋と呼吸を動かし、気・血・水が動いて巡り活性すれば、それぞれのチャクラは「同時」に活性へと向かっている。
なのに「ひとつづつ」などとしているのは、明らかに「理(ことわり)」から外れているのである。
チャクラが開花するときは『同時開花』である。
五つのチャクラは「同時」に開花する。
ひとつしか開かないと言うなら、それは『理(ことわり)』の外・・・・
そもそも「巡り」の無い状態。
想像、空想、妄想による『念』である。
チャクラとは「肉体」と「霊体」を結ぶ器官である。
だから、それが「開花」しないと「霊を宿す」ことが出来ない。
菩提薩埵
「菩提薩埵(菩薩)」とは何か?
「悟り(菩提)」「薩埵(衆生)」と言われているが 本当か?
「悟り」とは?
ブッダの言う「悟り」とは?
左脳で理屈をこねるのが悟りか?
ブッダは「バラモン」である。
バラモンとは「ブラフマン」
それ(ブラフマン)は「物質世界を変える贄(にえ)」というもの・・・
神の祭祀の「贄(生贄)」とは『我が身』のことである。
我が身を神に「捧げる」ということ。
それは、「我が身に神を宿す」ということである。
ヨガによって「肉体」を「霊身一体」と為し、「宿り(菩提)」「薩埵(生命)」となることであり、神霊を宿した肉体が『菩提薩埵』という「悟り」である。
観自在菩薩は『神眼』で「観ずる」ことが「自在」な「祭祀」または「巫女」であり、肉体に宿った『神の眼』で『観る』ことが出来る人・・・・というわけである。
文殊菩薩は『神の智慧』という引き出しから『智慧』を出す人・・・・
普賢菩薩は『神の慈愛』をもって慈しみを行う人・・・・
『人即神』の状態が『菩提薩埵』であり、神がこの世に「生命」を持った状態・・・
十(神)が卍(仏)として「活動」する状態である。
ヨガは「ちゃんとやれば」一瞬で活性化する。
意識を向けるところ
力を使うところ
呼吸の流れ
意識の流れ
気の流れ
血の流れ
水の流れ
それらが『理(ことわり)』に沿って動く時・・・
チャクラの「つぼみ」は動き出す。
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