『言霊ラジオ』 ~言霊は「言葉」ではなく「霊」である
今日、突然に「視界の影」が出てしまった。
どうやら「鼻をかんだ」時に「網膜」が浮いてしまった・・・という感じ。
『網膜剥離』と言うのでしょうが、言葉にすると恐ろしい感じになります。
確かに少し前から疲れ目が酷かった。
それに加えて首辺りや頭部で血流が悪くなっていたところで「鼻をかんだ」ことで眼球の血管が膨れたのかもしれない。
右目の右側三分の一ほどに、「キラキラした幾何学模様」のような大小の規則正しい光の影が視界を覆っている。
網膜が見えてしまっている・・・状態らしい。
とりあえずお風呂にでも浸かって・・・
その後、これを書き始めているのだが、右目を塞いで左目だけで書いてます。
こういう酷使をするからなんだろうな・・・・
風呂に浸かってしまったから書いている・・・と言った方がいいかもしれない。
風呂に浸かるたびに『言霊』は降ろされる。
それに、ここ2~3日シャワーっだけで済ましていたから・・・
「ここぞ」
とばかりに降ろされた。
人は言霊のラジオである
言霊を「受け取る」ということは、「受信」しているわけである。
ならば「トランシーバー」という方が適しているのではないかと言われるかもしれないが、やはり「ラジオ」の方が適している。
言霊を降ろしてくるのはけっして「1人(1霊)」だけではない。
と言うと「当たり前だろう」となるかもしれないが、ここで言う「1人(1霊)」だけではないというのは、「一つの事柄」に対してその時に言霊を降ろしてくるのが「1人(1霊)」だけではないということで、それはどういうことかと言うと
主たる霊の主たる言霊に「割り込む言霊」があったり「引き継ぐ言霊」があったり・・・ということである。
それで一つの「話」が完結してゆくことがある・・・ということだ。
トランシーバーなら「割り込み」は出来ないが、「ラジオ」なら別である。
1人の主たるパーソナリティ(司会)が居り、ゲストが数名居れば、一つの題材に対して複数人がしゃべることになる。
それで一つの題材が完結されるという、「ラジオ」的な『言霊』であるということだ。
ひとつの事柄を人柱の神様が語るのが言霊の在り方ではない。
例を示すとこれである。
一番最初の最初が「主」たる霊人・・・神の御子(巫女)の言霊であり、それは御子が受け取った主神の言霊そのもの。
その強烈な一つの言霊に対して、様々な御子の霊人たちが言霊を降ろす。
別の言い方、別の思いからの「言霊」がそれぞれ足されていく。
言霊とは『火種』である。
それを「灯す」ことで「言葉」として紡がれてくる。
その「言霊」を「書いて」いる時、もしくは「語って」いる時、その言霊を降ろした神なり霊人なりが「書いて」「語って」いる。
この身体に「言霊」という霊の「火種」を「灯して」いる状態は「言霊」という「霊懸かり」である。
「憑きもの」という言葉があるが、「付きもの」もあれば「点きもの」もある。
言霊は「火が点る」という「点きもの」である。
ただの霊懸かりは「霊が付く」という「付きもの」である。
この違いは大きな違いなのであるが・・・・・
言霊は受け取った者が「点火」する。
霊懸かりは霊の玉思い(たましい)に「呑まれる」という「その場の空気に呑まれる」ような「呑まれる」である。
寄り付いた霊に圧倒されて自分が呑み込まれてしまっている状態・・・である。
話を戻そう。
言霊がいくつも連続してくるが、火を灯してみると「火の色」が違うことがわかる。
そこに現れる「言葉」という「色」が違う。
その「色の違い」をそのままに現わすと、言葉が違うということがよくわかるが、そのままではなく「自分言葉」でしか現わせなければ「同じ」になる。
どちらかというと多くの人は「同じにしたがる」傾向にあるだろう。
だがそれは「歪み」を生む。
わざわざ別の「言霊」であるのに、「同じ」にすることで「別である意味」が無くなる。
そして「伝わるものも伝わらなくなる」のである。
言葉の「同一性」というものは時に「勘違い」を生んでしまう。
「見方」を間違えてしまうような状況が起こるということだ。
そのことをわざわざ「別の霊人」が「別の日(今日)」に「別の題材」で伝えて来た。
占星術においてそれを例えてみる。
私自身、特に「占星術」に詳しいわけではない。
ただ単に「エネルギーの潮流」を読むくらいである。
そういう見方をしているから言葉に惑わされないで済むのではあるが・・・・
西洋占星術において十二宮の星座があり、それぞれ「火星座」「土星座」「風星座」「水星座」という種別の分け方があり、その四種の星座に対して「活動宮」「柔軟宮」「不動宮」という分け方もある。
そんな分け方である「活動」「柔軟」「不動」という『言葉』に囚われる・・・・と言うのである。
言霊は告げる
『風が不動とはどういうことだ?』と・・・
『水が柔軟とはどういうことだ?柔軟ではない水があるのか?』と・・・・
『土が活動するとはどういうことか?』と・・・・・
『火が不動とは?柔軟とは?』と・・・・・・
風は「空気の動いている」状態が風である。
動かなくなればもはや「風」ではない。
では「風が不動とは如何に?」
こんな「言霊」なのである。
「活動」「柔軟」「不動」という言葉を使っているが本当にその言葉通りか?
そう突き付けられるわけである。
はからずも答えはすぐに出た。
「住吉三神」であり「祓戸大神三神」である。
上津綿津見神(上津海神)
中津綿津見神(中津海神)
底津綿津見神(底津海神)
であり
速秋津姫(上津海神)
気吹戸主神(中津海神)
速佐須良姫(底津海神)
ということである。
つまり、火の「外側(上津)」「中側(中津)」「中心(底津)」となり
土の「表層(上津)」「中層(中津)」「岩盤層(底津)」となり
風は空間の「低空層(上津)」「中空層(中津)」「上空層(底津)」となり
水の「表層(上津)」「中層(中津)」「底層(底津)」というわけである。
そして「活動(上津)」「柔軟(中津)」「不動(底津)」というわけである。
水の表層は波立つ層であり、中層は流れのある層であり、底層は静かな動きの層である。
火も風も土も同じ。
火は大きく揺れているが、燃えている「芯」の部分は小さな揺らぎである。
「活動宮」「柔軟宮」「不動宮」という場合、その言葉に囚われるのではなくそのように見る方がいい・・・ということだ。
水星座で言うと、蟹座は「波間」のようなものである。
海の「海流」と「風」の双方に影響を受ける。
だが魚座は「海流」に忠実である。
蠍座は「深海」であり流れも静かである。
風星座で言うと、双子座は波を起こしたり砂埃を巻き上げたり・・・忙しいイメージである。
天秤座は真っ白な雲が現れたり消えたり雨雲で雨を降らしたり・・・という空模様。
水瓶座はさらに上空の大気圏までの空域。
そんなイメージというものだ。
『言霊』で大切なのは、言霊という「霊」の「違い」を知ることであり、わざわざ「違う」ものを降ろしているのに「同じ」にしてしまえば「違う」という意味が無くなってしまうということだ。
言霊として降りてくる玉思い(たましい)の霊は、『霊』であるということ。
「言葉」ではないのである。
「言葉」を降ろす神も霊人も居ない。
すべて「人」という受信機のスピーカーが言葉に「変換」しているのである。
そのスピーカーの性能が悪ければ、音の「違い」がわからず、良ければ「違い」が如実に聞こえるのである。
性能の善し悪しは「感受」の微細さ荒さ・・・ということである。
言霊を降ろしたなら、そこには「霊」が言葉を紡いでいるはずであるが、そこに「自分」という『濁り』が入ることで言霊は意味を歪める。
だから「自分言葉」などで語られる言霊というものは「我」の濁りが混じってしまっており、それは「雑音だらけのラジオスピーカー」から流れてくる音なのである。
司会者が喋ろうが、ゲストが喋ろうが、誰が喋っているかわからないほどの「雑音」交じりのラジオなのである。
・・・・
書き終わってから右目を塞いでいたものを外したら、ちゃんと見えるようになってました。
よかった(^○^;
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