『風車は風で回る』~チャクラ開花で回る花びら
風車が風で回るという当たり前の如く、チャクラの花びらも「風」で回る。
それが『理(ことわり)』であるのに、風も吹かせずチャクラを「回す」と教える人々・・・
頭の中で「念」で回そうとしているのである。
そこに生まれる「花」は『蛭子』であり、「見たことも無い」ものをどうやって「念」で「花だけ」回すのか?
左脳による「思考の凝り」は「凝り」であり「淀み」である。
そんな「凝り」「淀み」が潜像世界で「像化」したものを「チャクラ」として、幽体内に「異物」を創り出す。
その「異物」がいったいどのような働きをするというのだろう・・・・
「念」を凝らせることを「瞑想」とする人も多く、そういう人はたいてい『生霊』を放つことに長けている。
自身では気付いてはいないが、凝って淀んで偶像化した「生霊」が、「チャクラ」という植物的生霊を創造した如くに自身の生霊を創造する。
「今の下心」と書いて「念」
それは「重い」思いである。
そこに「情」が混ざればさらに重くなる。
施術をしていて時々、「やっかいな生霊」に出会うことがある。
たいがい「念」という「修行」をしてしまった人の生霊である。
普通の人の生霊なら簡単に切り離せるが、念修行などをした人の生霊は「剥がす」のに少々手間がかかる。
手間とは「重い」からであり、その分労力を使うということだ。
念でチャクラを回してきた人が、本当に「チャクラ」を回すためには、「念の花」を咲きに片付けなければならない。
きれいさっぱり「祓いきって」しまわなければ、ちょっと「情」で心が湿ると再び生えてきてしまう。
自身で、自分の心に「湧かないように」常に心掛けないと、それはカビが生えるようにすぐに生えてきてしまう。
「念」で「偶像」を「凝らせる」ということは、そういうことなのである。
神仏の偶像も然り
必ず「邪魔」をすることになる。
受・想・行・識
それを連続して出来なければ物事は歪む。
受・想・想・想・想・想・想・行・識
念を凝らせる瞑想
これでは「風」は吹かない。
チャクラの花は「風」が吹けば自ずと回る。
その「風」の吹かせ方に神妙の技がある。
頭の中が「日月」ではなく「月日」と逆立ち状態では「風」すら「念」となり、「ねっとり」とした流れぬ「淀み」となるばかり。
そんな「ねっとり」とした「空気感」を身にまとっているからすぐにわかるのであるが・・・
0コメント